明知城

明知城

岐阜県恵那市明智町の東側にそびえる標高530mの城山の頂上に位置する平山城が明知城(あけちじょう)。戦国時代に三河と信濃の国境に近い東濃の要衝だった明智。戦国時代、白鷹城とも呼ばれた明知城は、戦国時代に攻防の地となった城で、本丸跡、二の丸跡、出丸跡などが現存しています。

標高530mの城山に造られた戦国時代の城

日本三大山城に数えられる岩村城から南西8kmに位置する明知城。
明知遠山氏の居城でしたが、元亀元年(1570年)、室町幕府最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の要請で上洛を決意した甲斐、武田信玄の家臣・秋山晴近軍の攻撃を受けて落城。
以後、明智光秀軍の奪還、武田勝頼軍の侵攻・城下炎上、長篠合戦後の遠山利景(とおやまとしかげ)の帰還と目まぐるしい攻防の日々が続いています。
小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉が勝利を収めた際、戦死した美濃金山城主・長可の子・森忠政に、明知城を与え、再び遠山利景は明知城を追い出されています。

関ヶ原合戦の直前になると信州・上田に布陣した徳川秀忠の関ヶ原進軍の通り道になることが想定され、徳川家康は地元に生まれ土地に詳しい遠山利景に明知城入城を命じ、その後、東濃平定の戦功により徳川幕府の旗本になっています(名奉行・遠山景元のルーツは、遠山利景)。

元和元年(1615年)、「元和の一国一城令」で廃城となり、遠山利景の息子、遠山方景(勘右衛門)が城下に陣屋を構え、江戸に旗本としての邸宅を築いています。

東西400m、南北300mの山上に、本丸、二の丸、さらに出丸があり、堀で囲まれています。
高さ10mの土塁に囲まれた本丸跡は、城山の最高所。
北側と東側は絶壁となり、天然の要害だったことがよくわかります。
主要な曲輪の周囲に設けられた斜面に並行するように設けられた横堀と、斜面に直行するように設けられた複数の竪堀で構成される「畝状竪堀群」と呼ばれる遺構が特徴的です(築かれた時期は定かでありません)。

美濃国可児郡(現・岐阜県可児市)にも明智城(あけちじょう)があり、『明智軍記』には稲葉山城主・斎藤義龍の攻撃を受けて落城する際に、明智光秀が明智家の再興を託されて逃れたと記されています。
明智光秀の生誕の城に関しても、可児市の明智城である可能性が大。

明知城
名称 明知城/あけちじょう
所在地 岐阜県恵那市明智町城山1318-1
関連HP 恵那市公式ホームページ
電車・バスで 明知鉄道明智駅から徒歩20分
ドライブで 中央自動車道瑞浪ICから約22.5km。または、東海環状自動車道せと品野ICから約31km
駐車場 明知城址入口駐車場(5台/無料)
問い合わせ 恵那市観光交流課 TEL:0573-22-9201/FAX:0573-26-2861
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

岩村城

標高721mの城山の山頂に築かれ、高低差180mの地形を活かした堅固な山城が岐阜県恵那市岩村町にある岩村城。大和・高取城、備中・松山城と並び、「日本三大山城」のひとつに数えられています。地形的な要因で霧が立ちこめやすいことから「霧ケ城」とも

明智城

明智城

岐阜県可児市にある土岐明智氏の居城で、明智光秀生誕の城といわれるのが明智城(明智長山城)。鎌倉時代後期、康永元年(1342年)、長山に土岐頼兼(ときよりかね)が城を築いたのが始まりとされ(『美濃国諸旧記』)、土岐頼兼は、明智と改名し、代々の

 

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