関ヶ原古戦場・宇喜多秀家陣跡

東軍を迎え撃つかたちの西軍方は大将の石田三成の拠る笹尾山、副将の宇喜多秀家の拠る天満山、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元の南宮山という布陣で、東軍を囲む鶴翼の陣(かくよくのじん)を敷き、優位な状況で戦いが始まります。宇喜多秀家軍1万7000が陣取ったのが天満社のある天満山です。

西軍・副将、宇喜多秀家は天満山に陣取った

井伊直政、そして本来の東軍先鋒の福島正則軍による宇喜多秀家軍との衝突で、関ヶ原の合戦の火蓋は切られました。
関ヶ原の合戦の時点では備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4000石、つまりは山陽道を領有していた西の雄・宇喜多秀家の「秀」は、豊臣秀吉からもらった一字。
秀吉の養女(前田利家の娘)・豪姫を正室とし、豊臣政権を支えてきました。
関ヶ原の戦いでも宇喜多秀家は西軍の副大将で、西軍主力部隊を率いて、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げました。

西軍が敗れた中、宇喜多秀家は伊吹山中に逃げ込み、落ち武者刈りの指揮官・矢野五右衛門(やのごえもん)に見つかりますが、その潔のよい秀家の態度から、秀家を匿って大坂の前田屋敷に逃がしています。
宇喜多秀家は、島津氏を頼り薩摩国へ逃げますが徳川方に引き渡され、島津氏や前田氏の懇願で八丈島への流罪となります。
八丈島で50年以上を過ごし、1655(明暦元)年死去。享年84。
皮肉なことに、関ヶ原を戦った大名のうちでは、もっとも後の時代まで生きたのが秀家です。

関ヶ原古戦場・宇喜多秀家陣跡
名称関ヶ原古戦場・宇喜多秀家陣跡/せきがはらこせんじょう・うきたひでいえじんあと
所在地岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4146
関連HP関ケ原観光協会公式ホームページ
電車・バスでJR関ヶ原駅から徒歩23分
ドライブで名神高速道路関ヶ原ICから約2km
駐車場なし
問い合わせ関ケ原観光協会 TEL:0584-43-1600/FAX:0584-43-0915
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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