戦国時代には、戦火での焼失を恐れ、善光寺のご本尊は点々とします。
川中島合戦の戦火を恐れた信玄は。まず自分の勢力下にある佐久郡禰津村(現在の東御市祢津の大日堂)に疎開させます。
3年ほど禰津村に安置しますが、ここも危ないと知るや、1558(永禄元)年に甲斐善光寺へ。
そしてその武田家を滅ぼしたのが、濃尾平野を手中に収めた織田信長です。
信長が善光寺本尊を岐阜に遷す
1582(天正10)年、織田信長とその同盟軍の徳川家康は、甲州に進軍。またたく間に武田勝頼を天目山(山梨県甲州市大和町)へと追い詰め、ついに武田家は滅びます。
早速、信長は甲斐善光寺にあった善光寺のご本尊を岐阜城下、岐阜の総産土神である伊奈波神社の近くに遷した。
これが現在の岐阜善光寺。
実際は、信長が寺を建立したわけではなく、信長の孫・織田秀信が、善光寺如来が祀られていた地に伊奈波善光寺堂を建立たのが始まり。
なぜなら、信長は善光寺の建立を果たすことなく、本能寺の変で明智光秀に討たれてしまうから。
3月に岐阜城下に遷されたご本尊は、わずか3ヶ月後には本能寺の変の勃発で尾張国甚目寺(現・愛知県あま市)へ遷されます。
甚目寺へと遷したのは、織田信長の次男、織田信雄(おだのぶかつ)。途中に祖父江村(稲沢市祖父江)に立ち寄ったとされるため、祖父江には善光寺の東海別院(六善光寺のひとつ)も建立されています。
岐阜善光寺(創建時は伊奈波善光寺堂、のちに善光寺安乗院)のご本尊は、安乗院と満願寺(伊奈波神社の境内の寺院)で交代で守護されましたが、明治の廃仏毀釈の荒波で満願寺は廃寺となり、愛護山善光寺安乗院として残りました。これが岐阜善光寺です。
信濃の善光寺はいずれの宗派にも属していませんが、岐阜善光寺は真言宗醍醐派の寺。
真言蜜教の秘法で御祈祷が可能です。
それでも、岐阜伊奈波の善光寺として、宗派を超えて親しまれています。
今回の御開帳では、半世紀以上にわたり、秘仏としてそのお姿を拝むことができなかった本尊を拝観できます。
2015年4月5日(日)=開扉大法要
2015年5月2日(土)=中日法要(紫灯護摩供・火渡り)真言蜜教の秘法での火渡りも齋行されます
2015年5月31日(日)=結願大法要
【岐阜善光寺】
善光寺安乗院寺務所
〒500-8043岐阜県岐阜市伊奈波通1-8
TEL058-263-8320
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