群馬県前橋市を流れる広瀬川の河畔緑地に建つのが萩原朔太郎記念館(はぎわらさくたろうきねんかん)。生家(現・前橋市千代田町2-1-17)にあった土蔵、生家の裏庭にあった書斎、離れ座敷を移築、復元したもの(敷島公園内から再移築し、平成29年に河畔緑地で公開)。
萩原朔太郎の書斎、土蔵を移築保存した記念館
萩原朔太郎は、明治19年、群馬県東群馬郡北曲輪町(現・前橋市北曲輪町)の医師の家に生まれ、北原白秋に師事し、大正2年5月、26歳の時に人妻との夜汽車の逃避行を綴った『みちゆき』(後に『夜汽車』に改題)ほか5編の詩を白秋主宰の高踏的文芸誌『朱欒』(ざんぼあ)に発表、中央詩壇にデビューしています(このときまでは、無名詩人でした)。
『朱欒』は、19冊目となる大正2年5月号で終刊していますが、萩原朔太郎、室生犀星、高村光太郎、斎藤茂吉らが育ち、木下杢太郎、吉井勇、志賀直哉、三木露風も寄稿しています(朱欒=ザボン)。
土蔵は、明治34年頃の築で、昭和20年8月5日の前橋空襲からもこの土蔵が萩原家を救っています。
現存する萩原朔太郎のノート、原稿、朔太郎あて書簡などの朔太郎資料は、この土蔵で保管されていたもの。
鬼瓦下には「萩」の文字が入っています。
書斎は、味噌蔵を改造したもので、内部は当時としては先端の洋風です。
朔太郎自身の考案による設計で、独身時代の大正3年1月末〜大正8年10月下旬(27歳〜32歳)にこの書斎を使い、大正6年発表の処女詩集『月に吠える』、第二詩集『青猫』などの多くの作品はこの書斎で生まれ、口語自由詩を確立した代表的詩人として名を残したのです。
離れ座敷は、明治25年頃、来客の接待用に朔太郎の父・萩原密蔵が建てたもの。
北原白秋、若山牧水、室生犀星などが訪れた際には、この離れ座敷に通されていると推測できます。
館内には朔太郎の写真パネルや色紙、ノート、日記などの複製と、初版本の復刻版などが展示。
前橋市内には『廣瀬川』 (厩橋下流広瀬川畔) 、『月夜』(諏訪橋際広瀬川畔)、『才川町』(才川公園) 、『帰郷』(敷島公園ばら園) 、『大渡橋』(大渡橋上) 、『新前橋駅』(新前橋駅前広場) 、『利根の松原』(前橋こども公園) と詩碑なども7基立っているので、あわせて探勝を。
萩原家の墓所(萩原朔太郎の墓)は、政淳寺(前橋市田口町)にあります。
画像協力/前橋観光コンベンション協会
『夜汽車』|萩原朔太郎
有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるき”にす”のにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科は過ぎずや
空氣まくらの口金をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。
萩原朔太郎記念館 | |
名称 | 萩原朔太郎記念館/はぎわらさくたろうきねんかん |
所在地 | 群馬県群馬県前橋市城東町1-2-19 |
関連HP | 前橋文学館公式ホームページ |
電車・バスで | 上毛電鉄中央前橋駅から徒歩5分。JR前橋駅から徒歩18分 |
ドライブで | 関越自動車道前橋ICから約5km |
駐車場 | 市営パーク城東・城東町立体駐車場(442台/有料) |
問い合わせ | 前橋文学館 TEL:027-235-8011/FAX:027-235-8512 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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