上野国分尼寺跡

741(天平13)年、聖武天皇の詔(みことのり)で仏教による国家鎮護のため諸国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)のひとつが上野国分尼寺跡。上野国の国府(政庁)の北西に、僧寺(国分寺)と尼寺が東西に500mの間隔で並んで建てられています。

田畑が広がるのみの地に古代に国分尼寺が

基壇などが復原された国分寺の東、500mの地点に上野国分尼寺跡があり、中門・金堂・講堂の建物基壇が確認されています。
礎石などの出土物は埋め戻されているので、田畑が広がるのみとなっています。

上野国分尼寺跡は昭和44年〜45年の群馬県による発掘調査で、その存在が確認され、ようやく平成28年に講堂跡、東門跡と推測される地の調査が始まりました。

それまで講堂跡だと推定されていた場所が、実は尼が日常の生活を送る尼坊あとだったことが判明し、東門跡だと思われていた場所は、門跡ではないことが確認されました。
「上野国分尼寺の尼坊は、他国ではあまり見られない礎石を使い、それが大きいことに特徴があります」(高崎市教育委員会)。

その後、平成29年に東辺を区画する築垣の基礎部分、中門と金堂を連結する回廊跡の南東隅部などが発掘されています。

上野国分尼寺跡の西540mには上野国分寺跡、さらに北東1.5kmの場所には関東でももっとも古い時代の古代寺院の跡である山王廃寺跡(国指定史跡/放光寺の跡と推測されています)があり、古代の上野国の中心的な場所だったことがわかります。

上野国分尼寺跡
名称上野国分尼寺跡/こうずけこくぶんにじあと
所在地群馬県高崎市東国分町・前橋市元総社町
関連HP高崎市公式ホームページ
電車・バスでJR前橋駅から群馬バスイオン高崎行きで国府小学校東、または、妙見参道下車、徒歩10分
ドライブで関越自動車道前橋ICから約3.6km
駐車場なし
問い合わせ史跡上野国分寺跡ガイダンス施設上野国分寺館 TEL:027-372-6767
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741(天平13)年、聖武天皇の詔(みことのり)で仏教による国家鎮護のため諸国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)のひとつ。上野国(こうずけのくに、かみつけのくに)の国府(政庁)の北西に、僧寺(国分寺)と尼寺

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