国の名勝に指定される縮景園は、広島藩主・浅野長晟(あさのながあきら)が1620(元和6)年に造園した大名庭園(別邸の庭園)。作庭は茶人としても知られる家老の上田宗箇。中国きっての景勝地として知られる西湖(現・浙江省杭州市)を模して縮景した池泉式回遊庭園で、山川の景、京洛の態、深山の致を凝縮させています。
江戸時代初期の築庭の達人・上田重安が作庭した庭がルーツ
1620(元和6)年、広島藩浅野家の初代藩主・浅野長晟が藩主の別邸に造園した庭園がルーツ。
作庭した上田重安(うえだしげやす=上田宗箇)は、尾張国愛知郡星崎(愛知県名古屋市南区星崎)、丹羽長秀の家臣・上田重元の子。
「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした古田織部(ふるたおりべ=古田重然)に茶を学び、蜂須賀家政に請われて、徳島城表御殿庭園を作庭。さらに姻戚であった紀州藩主・浅野幸長の家臣となって、和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園を作庭。名古屋城二の丸庭園の作庭も担当する江戸時代の造園家。
上田重安は、縮景園を作庭するにあたって、まず宗箇山(そうこやま)を借景とするため、その頂に赤松(宗箇松)を植えるなどをしています。
中国の西湖(せいこ)を模し、山川(さんせん)の景、京洛(きょうらく)の態、深山の致(ち)を庭の中に縮景したと伝えられる。
上田重安の築庭を清水七郎右衛門が大改修
上田重安の築庭当初は比較的小規模の庭でしたが、歴代藩主によって整備され、次第に大規模な庭園となりました。
第5代藩主・浅野吉長は、山池、建物、橋梁、島嶼に雅名(がめい)を付け、庭をさらに風雅なものにしています。
1786(天明6)年、第7代藩主・浅野重晟(あさのしげあきら)は、京の庭師・清水七郎右衛門(しみずしちろうえもん)を招いて大改修を行ない、現在に近い庭の形が生まれています。さらに頼春水・梅園太嶺・岡岷山らに園内名勝三十四景の名称を付けさせたのもこの時です。
昭和15年、旧藩主の浅野家から広島県へ寄付され、一般公開されています(この時、国の名勝となりました)。
第二次世界大戦では原爆投下などにより荒廃しましたが、清風館、悠々亭、看花榻なども復元され美しい姿に再建されています。
広島城下には、萬象園(現・広島市中区羽衣町)、与楽園(現・広島市中区加古町)、萬春園(現・広島市中区舟入)、春和園(現・広島市中区国泰寺町)、翠江園(現・広島市西区古江)と藩主や家老の庭園がありましたが、現存していません。
庭園の見どころ
1 跨虹橋
庭園中央にある濯纓池(たくえいち)を二分する花崗岩製の石橋(長さ27.4m×幅2.1m)。1786(天明6)年、の庭師・清水七郎右衛門が架橋していますが、7代藩主・浅野重晟はそのこだわりから二度も造り直させたと伝わっています。
庭園の見どころ
2 迎暉峰(げいきほう)
園内の最高峰なのが迎暉峰で比高は10mほど。山頂からは濯纓池、跨虹橋を眼下にします。かつてはここから瀬戸内の島々まで眺望できたのだとか。
庭園の見どころ
3 悠々亭(ゆうゆうてい)
『縮景園之記』に「岸に添ひ池に浮かびてもの清う安らかに建てし」と記された四阿(あずまや)。木造平屋建て、入母屋造りの茅葺きで、往時には歌会、納涼茶会などに使われていました。
庭園の見どころ
4 明月亭
木造平屋建てで寄棟造り、茅葺き(一部杮葺き)の数寄屋造り(一部書院造り)の茶室。内部は茶室、控えの間、水屋、玄関の間があります。
庭園の見どころ
5 夕照庵(せきしょうあん)
庭園の西側にある木造平屋建てで入母屋造り、茅葺きの茶室。
庭園の見どころ
6 梅林
園内西側にある梅林には17種110本あまりの梅が植栽され、例年1月中旬〜2月下旬に見頃を迎えます。
縮景園 | |
名称 | 縮景園/しゅっけいえん |
所在地 | 広島県広島市中区上幟町2-11 |
関連HP | 縮景園公式ホームページ |
電車・バスで | JR広島駅から徒歩15分 |
ドライブで | 山陽自動車道広島ICから約8km |
駐車場 | 21台/有料 |
問い合わせ | 縮景園 TEL:082-221-3620/FAX:082-221-0515 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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