瑠辺斯駅逓跡

明治14年、忠類村(現在の標津町忠類)から崎無異(さきむい)までの山道が開削され、さらに明治18年に「新斜里山道」として斜里に通じる根北峠(こんぽくとうげ)越えの峠道が開通。その際に、瑠辺斯(るべす)に駅逓(えきてい)が設置されています。現在は国道244号が駅逓跡の脇を通っていますが、草に埋もれた看板があるのみです。

根北峠越えの旧道に設けられた駅逓

標津川からの街道は、忠類川沿いに付けられ、瑠辺斯川(るべすがわ)の合流部近くに瑠辺斯駅逓所が設置されました。
斜里山道は全長12里で、瑠辺斯と標津の間に椴山休泊所、金山休泊所が置かれ、旅人の便宜を図りました。

旅人に馬の用意など便宜を図った駅逓所の初代駅逓取扱人は高橋茂三郎で、その後、遠藤喜太、長谷川長七、長谷川米治、沢向和吉、服部次八、麻生円蔵に引きつがれて昭和16年に廃止されています。

峠を越えた斜里側では、明治21年に斜里駅逓所、明治27年に峠入口の越川駅逓所が設置されています。

明治29年に瑠辺斯駅逓を通った河野常吉(こうのつねきち、明治大正時代の北海道史研究者)の『北海道殖民状況報文』によれば、駅逓開設当時は月に5人~10人の通行者があり、明治20年代になってからは1日2〜3人の宿泊者があると高橋茂三郎が語ったと記されています。

当時は、北見国の屯田兵による開拓の手助けで、根室国から根北峠を越えて北見国入りした人も多かったのだとか。

「新斜里山道」と呼ばれた峠越えの道は、明治18年に駅逓が置かれた標津側(根室国)の瑠辺斯から忠類川の本流を離れ、斜里岳東麓を越えて北見国の越川へと下りました。
この根北峠越えの道が開通するまでは、斜里山道(=シャリ越え)がメインルートで、現在の清里町、裏摩周側を抜けていました。

瑠辺斯(るべす)は、アイヌ語のル・ペシ・ぺ(ru-pes-pe=峠・道・沢/山越えしていく路)に由来する地名。明治18年に駅逓所を設置する際に、留辺蘂(るべしべ/現・北見市)、瑠辺蘂(るべしべ/美瑛町)などの地名がすでにあったので、あえて瑠辺斯という字を当てたのだとか。

国道244号の川北温泉入口からさらに根北峠に向けて3.6km走った地点で、ソーキップ林道に入り、複雑な林道を走った先には、湯ノ沢という沢に湧く瑠辺斯温泉という超の付く秘湯がありますが、残念ながら林道荒廃のため薫別温泉同様に、目下一般の入林は不可となっています。

瑠辺斯駅逓跡
名称 瑠辺斯駅逓跡/るべすえきていあと
所在地 北海道標津郡標津町古多糠
ドライブで 中標津空港から約35km
駐車場 なし
問い合わせ 標津町観光協会 TEL:0153-82-2131/FAX:0153-82-1787
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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