革籠原の防塁跡

革籠原の防塁跡

福島県白河市、南湖の南1.3kmほどにある大河ドラマ『天地人』の主人公・直江兼続ゆかりの地が革籠原の防塁跡(かわごはらのぼうるいあと)。会津を領有する上杉景勝(うえすぎかげかつ)は、神指に新城(神指城)を築こうとしますが、徳川家康に咎められ、会津征伐を招きます。その時、築かれたとされるが革籠原の防塁です。

家康軍の会津侵入を防ぐ防塁!?

豊臣秀吉の死後、会津中納言となっていた上杉景勝の家老・直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあったため、徳川家康と対立する構図に。
新城を築くなど、上杉景勝に謀反の動きがあると越後領主・堀秀治(ほりひではる)が徳川家康に報告。
徳川家康は上杉景勝に上洛を迫りますが、重臣・直江兼続は、上洛拒否の手紙「直江状」をしたためます。

こうして直江兼続には東征してくる徳川軍の大軍を当時の会津領の入口・白河で迎撃する必要が生まれたのです。
革籠原の防塁跡は、「直江状」の一件で緊迫した状況に陥り、関ヶ原合戦の直前、慶長5年(1600年)に築いた防塁の跡。

直江兼続独特の二重土塁構造で、土塁と土塁の間の堀の幅は約7m。
現存するのは石阿弥陀地区の370mと皮籠地区内のごく一部ですが、往時には全長は3km~5kmにわたったと推測されています。
西端の陣場には、見張り台として使用した陣場跡、さらに小丸山には土塁などが現存しています。

迎撃作戦は緻密で、湿地帯だった革籠原に徳川軍を誘い込み、佐竹義宣(さたけよしのぶ=豊臣政権の六大将で、常陸、下野などを領有)とともに挟撃する作戦。

白河決戦の直前に石田三成が挙兵し、会津征伐途中の7月24日、家康は有名な「小山評定」(おやまひょうじょう)を行ない、下野国小山(現在の栃木県小山市)から江戸、そして天下分け目の関ヶ原へとへと行き先を転じ、革籠原の防塁は実戦で使われることはありませんでした。

ただし、歴史学的には、「防塁」とされる遺構の建設された年代も、実は実証性が乏しく、『白河口戦闘配備之図』などに記された革籠原を決戦の場にしたという説にも疑問符が付きます。
後世の作には、徳川家康に歯向かったのは直江兼続であり、上杉景勝に非はないとする立場から記されたものが多く、その信憑性に疑いがあるからです。

革籠原の防塁跡
名称 革籠原の防塁跡/かわごはらのぼうるいあと
所在地 福島県白河市白坂石阿弥陀
関連HP 白河観光物産協会公式ホームページ
ドライブで 東北自動車道白河ICから約9.8km
駐車場 5台/無料
問い合わせ 白河観光物産協会 TEL:0248-22-1147
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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