福井県敦賀市にある北陸本線貨物支線の跡が、敦賀港線跡(廃線跡)。敦賀港線はあくまで通称ですが、敦賀港駅は明治15年3月10日、金ヶ崎駅(かねがさきえき)として開業した歴史ある駅です。昭和62年に旅客営業が廃止され、平成31年4月1日に全線廃線に。現状では線路などが残されています。
新幹線開通で再注目される敦賀港線・欧亜連絡運輸の歴史
新橋〜横浜間の鉄道が開通したのは、明治5年10月14日のことで、大阪〜神戸間の開業が明治7年5月11日、東海道線は神戸までの全通を目指し明治20年に国府津(こうず)まで開通していますが、長浜(滋賀県長浜市)〜敦賀港の開通は、それより以前の明治15年のこと。
琵琶湖舟運で大津〜長浜を結び、長浜と敦賀港を鉄道で結ぶことで、それまで関門海峡・下関回りだった日本海・瀬戸内海経由で京阪神への物流、つまりは西廻り航路(北前船)を敦賀港で荷揚げすることで、大幅に短縮できたのです。
明治の大物流革命のため、敦賀港へと鉄道が敷設され、明治23年、ロシア皇帝がシベリア鉄道建設を発表(明治24年、ロシアの東西で起工)すると、敦賀港を国際貿易港とする請願が出されて、港湾も整備(明治32年に国際貿易港として開港)。
明治35年にシベリア鉄道が全通(モスクワ〜ウラジオストク/9289km)すると、敦賀港〜ウラジオストクの定期航路が大家汽船によって開設され、日露戦争での中断はありますが、大阪商船が参入した明治40年には敦賀〜ウラジオストク航路は隔日運航へと充実、欧亜を結ぶ国際動脈にふさわしい内容となったのです。
さらに明治45年6月15日は、新橋〜敦賀港(当時の駅名は金ヶ崎駅)に寝台車を連結した1・2等専用の「欧亜国際連絡列車」(日本におけるボート・トレインの始まり)を週1便運転し、ウラジオストクへの船に連絡、そしてシベリア鉄道でヨーロッパへという国際連絡運輸(欧亜連絡運輸)が始まります(下りは夜行急行列車、上りは特別急行列車に東京駅〜米原駅間で併結される形によって運行が開始)。
新橋からヨーロッパまで1枚のきっぷ(欧亜連絡船車連帯切符)で旅できるという壮大なルートが、当時、極東の日本と、ヨーロッパを結ぶ最短ルートとなったのです。
「欧亜国際連絡列車」は第一次大戦やロシア革命で一時中断していますが、第二次大戦勃発時まで運行されています(ただし、昭和7年に満州国の建国が宣言されると、敦賀港行き直通列車は朝鮮・満州連絡列車の意味合いが強くなりました)。
昭和15年〜昭和16年、ナチス・ドイツの迫害から逃れ、リトアニアのカウナス領事代理・杉原千畝(すぎはらちうね )が発給した「命のビザ」でユダヤ難民が移動したのもこのルートで、ウラジオストクから船に乗り、敦賀港に上陸したユダヤ難民は「敦賀は天国のようだった」と話しています(敦賀港にあるミュージアム「人道の港 敦賀ムゼウム」で詳しく解説されています)。
こうした敦賀港のドラマチックな歴史を今に伝える線路が、敦賀駅と敦賀港駅を結んだ全長2.7kmの敦賀港線跡(廃線跡)というわけなのです。
旧敦賀港駅舎を復元した「敦賀鉄道資料館」は、平成11年夏に開催された『つるが・きらめき・みなと博21』のパビリオンとして建てられたもので、国際連絡運輸実施時代の敦賀港駅の外観などを復元しています。
建っている場所は往時とは異なっていますが、敦賀港駅の歴史を詳しく紹介しているので、廃線跡の見学とともにお立ち寄りを。
廃線跡は一般道路とクロスする旧踏切部分で見学が可能。
旧敦賀港駅線路は、日本遺産「海を越えた鉄道 ~世界へつながる 鉄路のキセキ~」の構成文化財にもなっています。
敦賀港線跡(廃線跡) | |
名称 | 敦賀港線跡(廃線跡)/つるがみなとせんあと(はいせんあと) |
所在地 | 福井県敦賀市金ヶ崎町〜舞崎町 |
電車・バスで | JR敦賀駅からぐるっと敦賀周遊バス観光ルートで8分、金崎宮下車すぐ |
ドライブで | 北陸自動車道敦賀ICから約3km |
駐車場 | 金ヶ崎緑地駐車場(128台/無料)などを利用 |
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