常陸国衙跡(常陸国府跡)

国衙(こくが)とは古代に国司の勤務した役所のこと。現代風に言い換えれば県庁のような存在。茨城県石岡市にある石岡小学校の校庭など常陸国衙跡の発掘調査では常陸国府の中心地に置かれた役所と倉庫群の跡が発見されています。国府の下には郡衙が置かれていました。

古代、東日本の軍事・経済の拠点・常陸国府の中心地がここ!

この石岡小学校の校庭が古代の常陸国の中心地だった

常陸国府内では国衙を西端に配置して条坊制が敷かれ、北に常陸国分寺と常陸国分尼寺、南に総社(現・常陸國總社宮)が配されていました。
さらに常陸国分尼寺跡から北に300mの位置にある鹿の子遺跡(かのこいせき)は、東北に居住していた蝦夷(えみし)征討などの軍事拠点の工房跡と推測される遺跡です。

国衙は方2町で内部に国庁を置き、周囲には土塁と堀が巡らされ、東西南北には門が設けられ、防衛的な配備もされていました。

古代の大国である常陸国には多河・久慈・那賀・新治・白壁・筑波・河内・信太・茨城・行方・鹿島の11郡があり、それを統轄していたのが国衙です。

常陸国衙は、東日本の軍事・経済の拠点であるとともに仏教が国営である時代(僧侶は国家公務員)ゆえに宗教文化の中心としても重要な役割を担っていたのです。

発掘調査から巨大な建物の跡、西脇殿跡や門跡、塀跡が見つかっていますが、現在では石岡小学校の校庭として埋め戻されています。
校庭脇に「常陸国衙跡」の石碑が立つのみですが、隣接して石岡市立ふるさと歴史館があり(石岡小学校敷地内)、発掘史料などが展示されています。

常陸国衙跡(常陸国府跡)
名称常陸国衙跡(常陸国府跡)/ひたちこくがあと(ひたちこくふあと)
所在地茨城県石岡市総社1-2石岡小学校内
関連HP石岡市観光協会公式ホームページ
電車・バスでJR石岡駅から徒歩14分
ドライブで常磐自動車道千代田石岡ICから約4.4km
駐車場10台/無料
問い合わせ石岡市観光課 TEL:0299-43-1111
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
常陸国府

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