小田城(小田城跡歴史ひろば)

小田城

茨城県つくば市にある中世(鎌倉時代〜戦国時代)、常陸国南部を領有した小田氏の居城だった城が小田城。小田氏の祖・八田知家が文治元年(1185年)に常陸国守護となった際、居館を構えたのが始まりで、戦国時代には小田氏治が攻防戦を繰り広げました。現在、小田城跡歴史ひろばとして公開されています。

戦国時代、何度も落城した小田氏の居城

小田城

鎌倉時代、源頼朝から信任された小田氏の祖・八田知家(はったともいえ=宇都宮宗綱の四男)は、初代の常陸国守護に任ぜられ、この地に居館を築いています。
南北朝時代には、小田治久(おだはるひさ)の居城で、南朝方の拠点となり、北畠親房(きたばたけちかふさ)は有名な『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)をこの小田城で著しています。

戦国時代には、城主・小田氏治(おだうじはる=小田氏最後の当主)は、常陸の佐竹義昭・義重父子や下総の結城政勝・晴朝父子、越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと対峙し、小田城の攻防戦で、何度も落城し、その都度、土浦城、藤沢城に逃げています。
天正2年(1574年)にはついに佐竹義重によって土浦城も落城し、その後、相模・北条氏政の支援で攻防を繰り返します。
天正18年(1590年)、小田城奪回に執念を燃やす小田氏治は、小田城外の樋ノ口の戦いで奮戦、北条氏政に救援を求めます。
時は、豊臣秀吉の小田原征伐の最中で、逆に、北条氏政と結んだ小田氏治は、豊臣方の佐竹氏に反旗を翻したことになり、所領を没収、大名家としては滅亡となりました。
後に、秀吉に許され、小田氏治は、結城秀康(徳川家康の次男)の家臣(300石)、娘は徳川秀康の側室となっています。

小田城自体は、関ヶ原合戦後の慶長7年(1602年)、佐竹義宣(さたけよしのぶ)の常陸国から秋田転封に伴い廃城になっています。
佐竹義宣の父、佐竹義重は、戦国時代に武田勝頼からの同盟依頼を断っていち早く織田信長と結び、天正2年(1574年)、常陸介に。
本能寺の変後、佐竹義宣は、豊臣秀吉の配下となり、水戸城、府中城を落とすなどして羽柴姓を与えられ、伏見に私邸を与えられるほどに出世しています。
関ヶ原の合戦時には豊臣恩顧ということから中立を保ったため、秋田転封となり、小田城が廃城となり、佐竹氏も応仁の乱(1467年)以来の常陸領を失っているのです。

宝篋山の南西山麓に築かれた小田城は、東西約1km、南北約700mの平山城で、主郭は東西120m、南北140m。
城跡周辺約21.5haが国の史跡に指定され、「小田城跡歴史ひろば」として公開されています。
「小田城跡歴史ひろば案内所」では、小田氏15代、400年のドラマを歴史絵巻風に再現。
発掘調査の報告など興味深い展示が多数あります。

小田城の北、2kmほどの場所には奈良、平安時代の郡衙(ぐんが=役所)である平沢官衙遺跡(ひらさわかんがいせき)、北条大池もあるので、あわせて見学を。

小田城
小田城(小田城跡歴史ひろば)
名称 小田城(小田城跡歴史ひろば)/おだじょう(おだじょうあとれきしひろば)
所在地 茨城県つくば市小田2377
関連HP つくば市公式ホームページ
電車・バスで つくばエクスプレスつくば駅からつくバス小田シャトルで小田東部、小田中部下車、徒歩5分。または、JR土浦駅から関東鉄道バス筑波山口行き、下妻駅行きで小田下車、徒歩10分
ドライブで 常磐自動車道土浦北ICから約9km
駐車場 小田城跡歴史ひろば案内所駐車場を利用
問い合わせ 小田城跡歴史ひろば案内所 TEL:029-867-4070
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

平沢官衙遺跡

奈良・平安時代に造営された常陸国筑波郡の郡衙跡(ぐんがあと)で国の史跡となっているのが平沢官衙遺跡。官衙(かんが)とは古代の官庁のことで、郡役所の正倉跡と推測されています。これまでの調査で大きな溝が囲む構内に大型の高床式倉庫と考えられる建物

北条大池

北条大池

茨城県つくば市、平沢官衙遺跡(ひらさわかんがいせき=奈良平安時代の筑波郡の役所跡)のすぐ南、筑波山を眺める溜池が北条大池。大池、小池の2つの池があり、大池公園として整備されています。現在も農業用水に使われる池の畔には500本ほどの桜が植栽

 

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