大河ドラマなどで好評を博す徳川家康。名古屋市では織田信長、豊臣秀吉とともに三英傑に数えられていますが、出身は尾張国(愛知県西部)ではなく、三河国(愛知県東部)の岡崎。岡崎城を拠点に三河を統一、江戸幕府を開いていますが、「神君出生の城」といわれるのが岡崎城です。
岡崎城には「東照公産湯の井戸」も現存
徳川家康は、天文11年12月26日(1543年1月31日)、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)、松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男として、岡崎城・二の丸で生誕(家康は二の丸で生誕したのではなく、出産間際に産湯の井戸脇の、坂谷邸に移ったとも。
父の松平広忠は、満16歳、母・於大の方(おだいのかた)は15歳の若さですが、戦国時代には現在の中学、高校生ぐらいで結婚するのが常識でした(武田信玄は13歳で初婚)。
岡崎城跡は岡崎公園として整備されていますが、竹千代(家康の幼名)生誕ともいわれる二の丸があったのは現在、能楽堂が建っている一帯です。
二の丸御殿の地下遺構に井戸も発見されていますが、産湯の井戸は、本丸と二の丸の西側に位置する板谷曲輪の井戸とされています(近世の文書に家康産湯の井戸と伝わるのは坂谷曲輪の井戸と記されています)。
昭和11年に石塔が建立された東照公えな塚があり、家康生誕時にへその緒・胎盤を埋めて成長を願ったと伝えられていますが、こちらは本丸南側から移築したもの。
こうした遺構もあって、岡崎城は、まさしく「徳川家康誕生の城」、「神君出生の城」となっているのです。
家康は人質解放から浜松城築城まで岡崎城を本拠に
岡崎城は、三河松平氏(安祥松平家)の第7代・松平清康(まつだいらきよやす=徳川家康の祖父)が、西三河を支配し、享禄4年(1531年)、城郭を整備したのが始まり。
中世の城だったので、徳川家康が生まれた時代には石垣はなく、近世的な城郭が整備されたのは、家康が秀吉によって関東に移封された天正18年(1590年)以降のこと。
家康は、6歳で織田信秀(織田信長の父)の人質となり那古野城(のちの名古屋城/現在の名城公園)へ。
8歳で今川義元の人質となり、駿府舘(のちの駿府城/静岡市の駿府城公園)と少年期を他国で過ごし、天文24年(1555年)、14歳のとき、駿府の今川義元の下で元服。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で、今川義元が戦死したことを契機に、ようやく故郷の岡崎城に戻っています。
その後、永禄4年(1561年)に尾張を支配する織田信長と清洲同盟を締結。
永禄6年(1563年)には名前を元康(「元」の字は今川義元の偏諱)から家康に改めて、今川家からの独立を明確にし、今川家と対立姿勢を貫きます。
元亀元年(1570年)、家康は武田の侵攻に備えるため、本拠を岡崎から遠江国・曳馬に移して、浜松城を築城。
こうして故郷を離れることになりました。
岡崎城は生誕と青年時代を過ごしていますが、出世への道は浜松城で切り開いたため、浜松城は「出生城」とPRされています。
江戸時代には、「神君出生の城」として神聖視
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉により家康が関東に封じられると、豊臣方の田中吉政(たなかよしまさ=豊臣秀次の家老)が岡崎城に入城。
城郭の整備を行ない、城の東・北・西に総延長4.7kmに及ぶ総堀を巡らせ、城下町の整備も行なっています。
東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の二十七曲がり」を生んだのもこの田中吉政です。
関ヶ原の合戦後、徳川家の治世になると、慶長7年(1602年)、三河譜代の重臣・本多家の本多康重(ほんだやすしげ)が城主に。
その子、本多康紀は、元和3年(1617年)、3層3階地下1階の天守を建築しています。
「五万石でも岡崎様はアヨイコノシャンセ お城下まで船が着くションガイナ アーヤレコノ船が着くお城下まで船が着くションガイナ アヨーイヨーイヨイコノシャンセ まだまだ囃そ」
この端唄(はうた)の『岡崎五万石』は、江戸の鳶職に人気が出て、花柳界に広まった歌。
岡崎城は南側を流れる矢作川(やはぎがわ)の舟運で上流から、そして河口から物資を運び入れたため、『岡崎五万石』は、江戸時代中期以降、矢作川をゆく船頭がゆったりした節で舟の艪に合わせて唄った舟唄だと推測されています。
現在の矢作川の川筋は、徳川家康の命により米津清右衛門尉(よねきずせいえもんのじょう=米津正勝)が付け替えたものです。
江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となったのです。
神君とは、文字通り神格化された君主ということで、家康は東照大権現(東照神君)として祀られ、岡崎城はその神君家康が誕生した城として神聖視されたのです。
本宿にある法蔵寺は、家康が幼少期に学問に励んだという言い伝えが残る松平家の菩提寺ですが、それだけの理由で参勤交代の大名・旗本は下馬して参拝する習わしだったとか。
諸大名はどんな気持ちで、岡崎城を見上げていたのでしょうか。
「神君出生の城」岡崎城 | |
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