熊本城本丸御殿

熊本城本丸御殿

平成19年に築城400周年を迎えた熊本城(熊本県熊本市)で、熊本城第2期復元整備計画(平成20年度~平成29年度)で復元が行なわれたのが本丸御殿。本丸御殿大広間が一般公開され、居間であり、対面所(接客の場)としても使用された昭君之間、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)と大御台所を見学可能。

熊本に豊臣亡命政権樹立という野望が!?

本丸御殿は、天守が役割を終えた江戸時代に、藩主の生活空間(居間)、接客の場(対面所)、台所として機能した建物。
本丸御殿大広間のなかでも最も格式が高いのが「昭君之間」で、中国・漢の元帝時代(紀元前1世紀頃)の悲劇の美女「王昭君」(おうしょうくん)の故事が狩野派の絵師によって描かれています。
「昭君之間」という名称は、「将軍之間」(しょうぐんのま)の隠語で、加藤清正が豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼を熊本城に迎え入れるために(徳川家康に座を譲り隠居させる目論見で)用意したという説があります。
それが証拠に、隣接する「若松の間」との境のふすまの取っ手に、豊臣家の家紋である桐文が刻まれ、その周囲には、加藤家の家紋・一重菊や桔梗が、四方を守るように配置されているのです。
つまり、加藤家が豊臣家を守ると読み解けるわけで、清正には熊本に豊臣亡命政権樹立という野望があったのかもしれません。

加藤清正が慶長15年(1610年)頃に建築し、細川忠利(ほそかわただとし)が藩主となった寛永年間(1624年〜1645年)に増築が行なわれています。

往時は部屋数53室、畳総数1570畳を数えたとい豪壮な建物でしたが、西南戦争の際に起こった火災で天守閣とともに消失しています。
なお、本丸御殿の地下には石垣でできた地下通路「闇り通路」が設置され、御殿への正式な入口も地下に。

 

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