徳川家康没後400年記念(1)「神君出生の城」岡崎城

平成27年は徳川家康没後400年。
ゆかりの地では様々なイベントが用意されています。
ニッポン旅マガジンでは、徳川家康の生誕から死去まで、ゆかりの地を取材してみました。
今回はその第1回目です。

岡崎の春の風物詩「家康行列」は、勇猛な三河武士団の出陣式や行進などによる、絢爛豪華な時代絵巻です

岡崎の春の風物詩「家康行列」は、勇猛な三河武士団の出陣式や行進などによる、絢爛豪華な時代絵巻です

「東照公産湯の井戸」も現存

徳川家康は、天文11年12月26日(1543年1月31日)、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で生誕
岡崎城は、まさしく「徳川家康誕生の城」。
父は岡崎城主・松平広忠(三河松平氏第6代=家康の祖父)、母は広忠の正室・於大の方。城内には「東照公産湯の井戸」も現存しています。
「五万石でも岡崎様はアヨイコノシャンセ お城下まで船が着くションガイナ アーヤレコノ船が着くお城下まで船が着くションガイナ アヨーイヨーイヨイコノシャンセ まだまだ囃そ」(『五万石』)は、江戸の鳶職に人気が出て、花柳界に広まった歌。

地元岡崎では、「江戸中期以降、矢作川(やはぎがわ)をゆく船頭がゆったりした節で舟の艪に合わせて唄った舟唄」だと推測されています。
岡崎城は南側を流れる矢作川の舟運で上流から、そして河口から物資を運び入れたのです。
現在の矢作川の川筋も徳川家康の命により米津清右衛門尉(よねきずせいえもんのじょう=米津正勝)が付け替えたもの。

東照公産湯の井戸

東照公産湯の井戸


三河松平氏(安祥松平家)の第7代・松平清康(まつだいらきよやす)が1531(享禄4)年、城郭を整備。中世の城だったので、家康が生まれた時代には石垣はなく、本格的な城となったのは、家康が関東に移封された1590(天正18)年以降のこと。

家康は、6歳で織田信秀(織田信長の父)の人質となり那古野城(のちの名古屋城/現在の名城公園)へ。8歳で今川義元の人質となり、駿府舘(のちの駿府城/静岡市の駿府城公園)と少年期を他国で過ごしましたが、1560(永禄3)年の桶狭間(おけはざま)の戦いで、今川義元が戦死したことを契機に岡崎城に戻っています。

1592(文禄元)年、田中吉政は岡崎城の整備を行ない、城の東・北・西に総延長4.7kmに及ぶ総堀を巡らせました。
1617(元和3)年、本多康紀は、3層3階地下1階の天守を建築しています。

「神君出生の城」として神聖視

江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となりました。

明治維新の廃城令で、城郭の大部分は破却され、現在のコンクリート造りの天守は昭和34年の再建です。

城内にある龍城神社(たつきじんじゃ)は、寛永年間(1624年~1643年)に、徳川家康を祭神として岡崎城天守に創建した東照宮がルーツの社。
明治時代は岡崎東照宮と称していました。
「三河武士のやかた家康館」は、甲冑試着体験もできるミュージアムです。

周囲を囲む堀割

周囲を囲む堀割

大手門は往時の場所とは異なり七曲門近くに復元されている

大手門は往時の場所とは異なり七曲門近くに復元されている

徳川家康を祭神とする龍城神社。全国の東照宮のひとつ、岡崎東照宮でもある

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三河武士のやかた家康館

三河武士のやかた家康館

 「岡崎の桜まつり」 期間中は、夜桜見物も楽しめます

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プレスマンユニオン編集部

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