屋嶋城

屋嶋城

天智天皇2年8月(663年10月)、朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍の間で激戦となった白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)。その敗北の結果、大和朝廷は、北九州と瀬戸内海に唐・新羅の侵攻を阻むための朝鮮式の古代山城を建造しています。そのひとつが屋嶋城(やしまのき)です。

唐・新羅連合軍の大船団を迎え撃つために築かれた古代の山城

屋嶋城
屋嶋城

『日本書紀』の天智天皇6年(667年)11月の条に「倭國高安城(やまとのくにたかやすのき)、讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)、對馬國金田城(つしまのくにかなたのき)を築(つ)く」と記され、讃岐国(現・香川県)に屋嶋城、そして対馬国(長崎県対馬市)に金田城を築いたことが記されています。

屋島は、源平合戦の際に瀬戸内海水軍を統括した平家が制海権をにぎるための拠点としたことからもわかるように、瀬戸内海屈指の要衝。

しかも当時の屋島は、南北5km・東西2kmのテーブル状の島(典型的なメサ地形)で、南嶺(標高292m)、北嶺(標高282m)という2つの嶺で形成されていました。

外周7kmのほとんどが断崖ですが、その1割に城壁や盛り土が築かれていたと推測され、城門遺構2ヶ所は古代山城で最大級のもの。
百済からの亡命者が設計や工事に関わっていたと推測できます。

大正10年に、標高100mの山中に谷を塞いだ、長さ47m、基底部幅9mの石塁と台状遺構(物見台)が発掘され、その後長らく古代山城の全体像は謎のままでした。

平成10年2月に南嶺山上部近くの西南斜面で土塁と関連する石積みが発見され、東斜面でも同様の地形が確認されたことから、古代山城屋嶋城の外郭線(防御ライン)が巡っていることが判明。
さらに平成14年に城門が発見され、ついに古代の山城であることが確認されました。

朝鮮半島の城づくりの技術を裏付ける「懸門」や「伫城」などの遺構、石塁などが復元され、見学路が整備され、平成28年に公開されています。
延長50m、高さ6mにわたってそびえたつ屋嶋城の城壁の迫力を体感することが可能。
山上の駐車場と山麓からの遍路道の2つのルートでアクセスできます。

対岸の岡山県総社市には、やはり古代山城の鬼ノ城(きのじょう)があり、四国には城山城(きやまじょう=香川県坂出市)、永納山城(えいのうざんじょう=愛媛県西条市)が築かれています。

屋嶋城
屋嶋城
名称 屋嶋城/やしまのき
所在地 香川県高松市屋島東町
関連HP 高松市公式ホームページ
電車・バスで ことでん潟元駅から徒歩50分
ドライブで 高松自動車道高松中央ICから約10kmで屋島山上南嶺駐車場、駐車場から徒歩20分
駐車場 屋島山上南嶺駐車場(400台/有料)
問い合わせ 高松市文化財課 TEL:087-839-2660
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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