関東七名城とは江戸時代、元禄6年(1693年)頃に夏目定房が記した上杉謙信、景勝2代を中心としたの軍記物『管窺武鑑』(かんきぶかん)で選ばれた関東地方に存在する、川越城、忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、宇都宮城、太田城の7城。戦国の世を生き抜いた難攻不落の城ですが、上杉家の支援、あるいは攻略対象の城しか選ばれていません。
上杉謙信の家臣・夏目定吉が記した難攻不落の城7選
『管窺武鑑』は、上杉謙信の家臣、夏目定吉の四男・夏目定房が、父・定吉の話を書き留めた戦国時代末の上杉家を描いた軍記物で、『上杉軍記』ともいえるもの。
夏目定吉は、上杉謙信没後、上杉景勝配下の藤田信吉(ふじたのぶよし)に仕えた後、永井直勝(ながいなおかつ=上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主)に召し出され、客人分となっています。
上杉謙信は北関東の各城の攻略戦を行なっていますが、『管窺武鑑』が上杉家の軍記物ということで、中世城郭としても小田原城は選ばれていません。
しかも近世城郭には触れられていないので、戦国時代の末に上杉家の視点で選んだ「難攻不落の名城」と考える必要があります。
川越城|埼玉県
日本三大夜戦の一つ・河越夜戦でも有名
所在地:埼玉県川越市郭町2-13-1
旧国名:武蔵国(むさしのくに)
築城年:長禄元年(1457年)、扇谷上杉氏の上杉持朝(うえすぎもちとも)が古河公方(足利氏)に対抗する足利氏の本城として太田道真、太田道灌父子に命じて築城
概要:徳川家康の関東入封で、徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が川越城に入り、川越藩が立藩し江戸時代には川越藩の藩庁
幕末の嘉永元年(1848年)、松平斉典(まつだいらなりつね)が再建した本丸御殿の一部(大広間と玄関)が現存=本丸御殿の大広間が残されるのは、川越城と高知城のみ
備考:日本100名城
忍城(おしじょう)|埼玉県
映画『のぼうの城』の水攻めで知られる
所在地:埼玉県行田市本丸
旧国名:武蔵国(むさしのくに)
築城年:成田親泰(なりたあきやす)が文明年間(1469年~1487年)に忍一族を滅ぼし、忍城に本拠を移して築城
概要:映画『のぼうの城』で描かれた忍城代・成田長親(なりたながちか)の忍城攻防戦(石田三成の水攻め)に耐えた名城
小田原城開城後に忍城も開城となり、徳川家康の関東入封とともに家康の四男・松平忠吉が10万石で忍城に入城
寛永16年(1639年)、老中・阿部忠秋(あべただあき)が入城して城下町の整備を行ない、元禄15年(1702年)、御三階櫓が完成
観光天守的な模擬櫓の行田市郷土博物館(忍城御三階櫓)が再建されています(往時のものとは異なる観光天守)
備考:続日本100名城
前橋城|群馬県
大老・酒井忠清を輩出した名城
所在地:群馬県前橋市大手町
旧国名:上野国(こうずけのくに)
築城年:中世の城郭は不詳で、天文3年(1534年)の利根川氾濫後にすでにあった石倉城の三の丸を修復し、城としたのが始まり
近世城郭は慶長6年(1601年)頃、酒井重忠(さかいしげただ)が改修
概要:江戸時代の半ばに厩橋は前橋と改められ、城も前橋城に
前橋藩の藩庁ながら、利根川の浸食で本丸が削られるなどしています
遺構はほとんどなく、本丸跡には群馬県庁本庁舎があるほか、二の丸跡に群馬会館(旧公会堂)、前橋市役所、三の丸跡には前橋地方裁判所が置かれています
金山城|群馬県
城郭史の定説が覆るほどの見事な石垣や石敷きが現存
所在地:群馬県太田市金山町40-16ほか
旧国名:上野国(こうずけのくに)
築城年:文明元年(1469年)、新田一族の岩松家純(いわまついえずみ)が築城
概要:金山(標高235.8m)一帯に築かれた中世の山城で、武田信玄、上杉謙信も城攻めを行なっています
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に忍城などとともに落城し、廃城に
本丸跡とされている山上に新田神社が鎮座し、二の丸、三の丸、馬場曲輪、北城、西城などが残されています
備考:日本100名城
唐沢山城|栃木県
連郭式山城で、「関東一の山城」とも
所在地:栃木県佐野市富士町1409
旧国名:下野国(しもつけのくに)
築城年:延長5年(927年)頃、近江三上山の百足退治の伝説で有名な藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が下野国押領使(おうりょうし=軍事警察権を有した地方長官)となり築城/伝承で、実際に築城したのは佐野氏とも
概要:唐沢山(241m)の山頂の本丸を構える中世の山城
永禄2年(1559年)、北条氏政軍3万5000の大軍に囲まれた際には、城主・佐野昌綱は、上杉謙信に援軍を求めてこれを撃退
上杉謙信と決別したことで、天正4年(1576年)、上杉謙信の大軍に攻められていますが、これも撃退して難攻不落を裏付けています
備考:続日本100名城
宇都宮城|栃木県
宇都宮藩の藩庁ながら、石垣がなく土塁が取り囲む
所在地:栃木県宇都宮市本丸町2-24
旧国名:下野国(しもつけのくに)
築城年:平安時代に藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、あるいは藤原宗円(ふじわらのそうえん宇都宮氏の祖)が築いたとされています/伝承です
概要:宇都宮氏22代・宇都宮国綱(うつのみやくにつな)は、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、石田三成の指揮した忍城攻撃などに参加
豊臣秀吉は小田原攻め直後の「宇都宮仕置」で関東、東北の諸将を集めて所領措置(朱印状)を申し渡しています
江戸時代は宇都宮藩の藩庁に
復元土塁の内部に宇都宮城の模型などを展示する「宇都宮城ものしり館」、「まちあるき情報館」が整備
太田城|茨城県
佐竹氏の常陸国制覇の拠点
所在地:茨城県常陸太田市中城町151
旧国名:常陸国(ひたちのくに)
築城年:天仁2年(1109年)、平将門の乱で活躍した藤原秀郷(俵藤太)の子孫という藤原通延が、太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まり/伝承
概要:佐竹氏の常陸国制覇の拠点となった城ですが、天正19年(1591年)、佐竹義宣(さたけよしのぶ=後に秋田藩初代藩主)が水戸城に本拠を移し、一国一城令で廃城に
本郭は現在の太田小学校一帯で、 二の郭は若宮八幡宮周辺で、往時の遺構は残されていません
関東七名城とは!? | |
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