永福寺跡

永福寺跡

神奈川県鎌倉市二階堂、鎌倉宮から瑞泉寺へ向かう途中、二階堂川に架かる通玄橋の手前で左に折れ、二階堂の谷奥、発掘調査で発見された建物の基壇や苑池などが復元される一帯が、永福寺跡(ようふくじあと)。鎌倉に幕府を開いた源頼朝が、美しい庭園とともに築いた永福寺の寺跡です。

源頼朝が奥州藤原文化に負けない寺を鎌倉に創建

永福寺跡

文治5年(1189年)、奥州平定の際に、平泉の藤原文化に驚いた源頼朝が(12月9日に建立を決意)、中尊寺二階大堂(大長寿院)や毛越寺(もうつうじ)などを模して建久5年(1194年)12月26日に創建したのが永福寺。

建久2年(1191年)には寺地の調査を開始、建久3年(1192年)1月21日には工事現場を頼朝自ら視察に訪れ、8月27日には、庭造りの専門家、静玄を京から招き、庭石の配置などついて相談をするという力の入れようでした。
静玄、庭の池に石を並べて頼朝に見せて確認していますが、それでも納得できる出来栄えではなかったため、11月13日にやり直しを命じるという熱の入れようでした。

源義経や奥州藤原氏第4代(最後の当主)・藤原泰衡(ふじわらのやすひら)らの鎮魂という目的もあったと推測されています。
源頼朝が没した後にも、源頼家、源実朝以下歴代の将軍は、境内で蹴鞠、酒宴、花見、雪見、歌会などを行なっているので、風雅な庭園はサロンとしての機能を有していたことがわかります。

昭和58年度〜平成8年度の発掘調査から、前面に池を配し、阿弥陀堂、二階堂、薬師堂が複廊を介して南北方向に一直線に廊で繋がっていたことが明らかに。
東に向く堂の前に配された苑池は、南北200m、東西40m~70mという広い池で、寺域としては鎌倉時代、国内屈指を誇った巨刹でした。
池では、目下、平泉町から贈られた中尊寺ハスを栽培中(6月下旬~8月上旬に開花)。

平泉の中尊寺、毛越寺(もうつじ)を模した名刹ですが、鎌倉幕府の庇護を失い、応永12年(1405年)に焼失し、室町時代には廃寺となっています。
その後、再建されることはありませんでした。

国の史跡として発掘調査が行なわれ、山林に囲まれた東西100m、南北200mの平坦地が寺の中心域と考えられ、周辺の森林や谷を含め、8万8000平方メートルが史跡に指定されています。
ちなみに二階堂という地名はこの永福寺の堂の名前に由来するもの。

開場時間が定められており、時間外は立ち入りができません。
永福寺跡の西側尾根には散策路があります。散策路途中の展望台からは、復元整備した建物の基壇や苑池を一望にできます。

鎌倉宮バス停からなら5分ほどなので、鎌倉宮参拝後にぜひお立ち寄りを。

永福寺跡
永福寺跡
名称 永福寺跡/ようふくじあと
所在地 神奈川県鎌倉市二階堂216
関連HP 鎌倉市公式ホームページ
電車・バスで JR鎌倉駅から京急バス鎌倉宮行きで終点下車、徒歩5分
ドライブで 横浜横須賀道路朝比奈ICから約5km
駐車場 なし
問い合わせ 鎌倉市教育文化財部文化財課 TEL:0467-23-3000
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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