関ヶ原古戦場散策・黒田長政コース

関ヶ原古戦場散策・黒田長政コース

「岐阜関ケ原古戦場記念館」が設定する関ヶ原古戦場で東軍の知将・黒田長政(黒田官兵衛の子)の関連の史跡をたどる散策コースが、黒田長政コース。関ヶ原合戦では事前の調略、そして実際の戦闘でも活躍を見せ、東軍勝利の立役者となっています。東軍に開戦の狼煙(のろし)を上げたのも、黒田長政です。

START|岐阜関ケ原古戦場記念館

起点となるのは関ケ原町役場横にある岐阜関ケ原古戦場記念館です。
黒田長政コースを歩く前には、ここでまずは関ケ原合戦に至る歴史的な背景と、合戦に至る過程、古戦場の全貌などをマスターしておくのがいいでしょう。

岐阜関ケ原古戦場記念館

岐阜関ケ原古戦場記念館

岐阜県不破郡関ケ原町(関ケ原町役場横)、天下分け目の関ヶ原合戦を解説するミュージアムが、岐阜関ケ原古戦場記念館。関ヶ原古戦場のビジターセンター的な機能を有するだけでなく、教育的視点・体験的要素を重視して、関ヶ原合戦に至る過程を学び、合戦の推

黒田長政・竹中重門陣跡/岡山烽火場

竹中半兵衛と黒田官兵衛(「両兵衛」)の息子がふたり揃って陣を構えた場所。
岡山(岡山烽火場)と呼ばれる高台で、黒田長政は6000の兵を率いて布陣し、東軍諸将に開戦を告げる烽火(のろし)を上げています。
戦況が把握しやすく関ケ原の合戦の「開戦の狼煙」を上げるには好適地だったことで、徳川家康は信頼する知将・黒田長政をここに配したのでしょう。
黒田長政は、秀吉が抱えた有名な軍師・黒田官兵衛(黒田孝高)の子で、豊臣秀吉恩顧の大名ながら親子ともども徳川方(東軍)に与し、小早川秀秋、吉川広家の調略などにも活躍。
西軍主力の石田三成軍と渡り合い、島左近を討ち取る活躍を見せ、関ヶ原合戦随一の功労者となっています。
関ヶ原を含めた美濃国不破郡5000石は、実は秀吉から配された竹中重門の領地で、しかも西軍からの寝返りということもあって、黒田長政監視下の前線に置かれたと推測できます。

ちなみに黒田長政は関ヶ原の合戦では福島正則から仲直りの印に譲られた銀箔押一ノ谷兜(ぎんぱくおしのいちのたにかぶと)を着用していました。

黒田長政・竹中重門陣跡

関ヶ原古戦場 黒田長政・竹中重門陣跡

慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で行なわれた天下分け目の関ヶ原合戦。関ヶ原古戦場の岡山(丸山)烽火場にあるのが、黒田長政・竹中重門陣跡。竹中半兵衛と黒田官兵衛(「両兵衛」)の息子がふた

決戦地

関ヶ原合戦でも最大級の激戦が繰り広げられたのが笹尾山を背にする決戦地。
「天下分け目の関ヶ原」のなかのさらに天下分け目の地です。
家康が本陣を笹尾山近くに押し出したこともあって、石碑が立つ場所のすぐ西には笹尾山がそびえています。
南宮山に陣取る西軍・毛利秀元隊など3万3000の軍勢は、内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できず、さらに内応を約していた小早川秀秋隊1万5000が東軍に寝返ったこともあって、形成は一気に東軍有利へと傾きます。
優勢となった東軍は、石田三成や諸将の首を狙って石田三成の本陣を目ざし、笹尾山の麓に陣取った島左近隊などの奮戦及ばす、西軍は総崩れとなります。

関ヶ原古戦場・決戦地

関ヶ原古戦場・決戦地

西軍有利な陣形で望んだ合戦(西軍は「鶴翼の陣形」)は序盤、実働部隊としての数で劣る西軍優勢で展開しますが事前に東軍に通じていた小早川秀秋隊の背反を契機に形勢は逆転。西軍の諸将が敗走するなか、関ヶ原合戦でも最大級の激戦が繰り広げられたのが笹尾

島左近陣跡

「治部少(じぶしょう=石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」といわれるほどの逸材だったという島左近(島清興)。
関ヶ原の合戦でも石田三成が陣を構える笹尾山の山麓に陣を張っています。
笹尾山は山麓に騎馬武者を防ぐ馬防柵と竹矢来(たけやらい=竹を縦・横に粗く組んでつくった囲い)を配しますが、勇猛で知られる島左近は竹矢来を背にして陣取るというかたち。
決戦地では果敢に徳川家康の本隊に迫りますが、奪戦中、銃弾をうけて、戦死したといわれています(諸説あって定かでありません。京に潜伏したという説まであります)。

関ヶ原古戦場・島左近陣跡

大和国・筒井順慶に仕え後に豊臣秀長、次いで秀保に仕えた島左近。秀保の死後、石田三成は自分の石高の半分にあたる2万石をもって島左近を抱えます。関ヶ原の合戦でもその前日、9月14日に美濃国杭瀬川(杭瀬川の戦い)で中村一栄軍を撃破。関ヶ原では、石

石田三成陣跡

伊吹山から派生する尾根の末端に位置する笹尾山の山頂は、関ヶ原を一望にできる展望地で、ここを石田三成の本陣に西軍は鶴翼の陣(かくよくのじん)で布陣。
200m東に二重の柵(馬防柵・竹矢来)を築き、猛者で知られる島左近を左翼に、蒲生郷舎(がもうさといえ)を右翼に配し、総勢6000の兵で守備します。

関ヶ原合戦の陣形図も置かれ、眼下に東軍が怒涛のように押し寄せた決戦地を眺めることができます。
ここに陣を定めたのは、石田三成の居城である佐和山城(現・滋賀県彦根市)への街道へも出やすいという地の利があるため、最初から万一を考えていたとする歴史考証家も。

笹尾山には石田三成の旗印、「大一大万大吉」が翻っています。
「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」というラグビー(One for all, All for one=一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために)にも通じるようなスピリットです。

関ヶ原古戦場・石田三成陣跡(笹尾山)

関ヶ原の北西の方角に位置し伊吹山から派生する尾根の末端に位置する笹尾山。国道21号のバイパスは笹尾山トンネルで通り抜けますが、実はこの笹尾山が関ヶ原の戦いで、西軍総大将・石田三成が陣を構えた一等地。山頂は関ヶ原を一望にできる展望地で、ここを

小西行長陣跡

加藤清正ら武断派と対立した文治派の知将・小西行長は、西軍の将として開戦地に近い東軍と睨み合う地に陣を構えました(武断派が東軍、石田三成ら文治派が西軍という関係)。
北は北国街道、南は中山道を抑えるという要衝で、合戦の火蓋が切られると北天満山から烽火(のろし)が上げられ西軍諸将に知らせました。
実際に北天満山に行くと、山頂は狭く、とても6000の将兵が布陣できるスペースはないので中腹に布陣し、山頂は物見と狼煙台(のろしだい)に使われたのだと推測できます。

関ヶ原古戦場・小西行長陣跡

関ヶ原古戦場・小西行長陣跡

岐阜県不破郡関ケ原町、天下分け目の戦い、関ヶ原合戦で西軍の将として布陣。陣を構えたのは、開戦地に近い北天満山で、現在の西田公園あたりが関ヶ原古戦場・小西行長陣跡。北は北国街道、南は中山道を抑えるという要衝で、合戦の火蓋が切られると北天満山か

開戦地

天下分け目の関ヶ原合戦は、天満山に布陣する宇喜多秀家隊へ、徳川四天王の一人である井伊直政の部隊が鉄砲を放って開戦しています。
もともと東軍の先陣は福島正則と事前の軍議で決められていましたが、井伊直政はともに陣を構えた娘婿・松平忠吉(まつだいらただよし=徳川家康の四男)に初陣の手柄を立てさせようと、戦いの火蓋を切ったのです。
井伊直政隊に先を越された福島正則も、小西行長隊や宇喜多秀家隊と交戦状態となります。
両軍総勢20万人のうち、鉄砲隊は2万人ほどいて、国際的に見ても数多い鉄砲が使われた近世的な戦闘になっています。

様々な史料から、実際の開戦地は、「史蹟 関ヶ原古戦場 開戦地」の石碑から300m〜500mほど南側、宇喜多秀家の陣跡の目の前とされています。
農地改良事業などで、西田運動公園に石碑が移されたというのが真相です。

関ヶ原古戦場・開戦地

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で行なわれた、「天下分け目の戦い」関ヶ原の合戦。東軍の先陣は福島正則と事前の軍議で決められており、井伊直政の抜け駆け的に開始したとも伝えられています

GOAL|岐阜関ケ原古戦場記念館

岐阜関ケ原古戦場記念館が設定する黒田長政コースのMAPです。
ダウンロードしてお使いください。

関ヶ原古戦場散策・黒田長政コース
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
関ヶ原古戦場・徳川家康コース

関ヶ原古戦場散策・徳川家康コース

「岐阜関ケ原古戦場記念館」が設定する関ヶ原古戦場で徳川家康の足跡をたどる散策コースが、徳川家康コース。最初に布陣した桃配山(ももくばりやま)から、戦況を好転させるために移動した陣場野の徳川家康最後陣地まで、家康進軍の足跡をたどります。全行程

石田三成陣跡

関ヶ原古戦場散策・石田三成コース

西軍の総大将・石田三成は、関ヶ原を一望にできる笹尾山に陣を構え、鶴翼の陣(かくよくのじん)で布陣しています。「岐阜関ケ原古戦場記念館」が設定する関ヶ原古戦場散策・石田三成コースは、全長9.4km、所要2時間20分のコースで、山中を通るため、

関ヶ原古戦場散策 福島正則コース

関ヶ原古戦場散策 福島正則コース

「岐阜関ケ原古戦場記念館」が設定する関ヶ原古戦場で、福島正則関連の陣跡をめぐるのが福島正則コース。秀吉とは従兄弟(いとこ)という間柄ながら東軍の先鋒を務め、宇喜多秀家軍と激突しています。全行程6.7km、所要1時間45分ほど。比較的平坦なコ

 

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