神應寺

神應寺

京都府八幡市、男山の中腹にある曹洞宗の古刹、神應寺(じんのうじ/神応寺)。貞観2年(860年)、男山に石清水八幡宮護国寺(近世までは神仏習合)を勧請した南都(奈良)・大安寺の僧・行教(ぎょうきょう)が、応神天皇の霊を祀るため應神寺を創建したのが始まり(後に神應寺に改称)。

眼下に淀川を一望する書院の眺望が見事

男山は、都の南西に位置し、裏鬼門を封じるという都の守護、国家鎮護の役割をも担っていました。
かつては四宗兼学(ししゅうけんがく=天台宗、真言宗、禅宗、浄土宗の兼学)の道場でしたが、室町時代後期に曹洞宗に改宗しています。
慶長年間(1596年〜1615年)、尾張国中島郡下津村(現・小牧市)の尾張国禅林第一の臣刹だった正眼寺(しょうげんじ)の末となって再興され、明治初年の神仏分離までは、石清水八幡宮の神宮寺(神社を管理する寺)でした。
本堂には本尊の薬師如来のほか、文禄の役の際、寺領を寄進した豊臣秀吉の像も安置、開山堂には国の重要文化財・木造行教律師坐像も祀られています(拝観希望の際は、事前に連絡が必要)。

書院は伏見城の遺構とも伝わり、襖や杉戸には狩野山雪(かのうさんせつ)筆による「竹に虎、御所車」、「瀑布図」が描かれています。
大坂の陣後、豊臣方の残党と疑われた狩野山楽(かのうさんらく)は、石清水八幡宮の社僧・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)に匿われ、その縁で、跡を継いだ狩野山雪の画が残されたものと推測できます。
書院からの眺望が見事で、眼下に淀川が一望のもと。
厄除けの不動尊として信仰を集める杉山谷不動尊は奥の院で、男山ケーブルの高架をくぐって参道が続いています。

イロハモミジの大木が群生する境内は、紅葉の名所として名高く、例年、紅葉時期の11月下旬の土・日曜には『紅葉まつり 特別寺宝公開』(開山行教律師座像、豊臣秀吉像、秀吉公御朱印などの寺宝を特別公開)も行なわれています。
紅葉は、例年12月も初旬となると盛りを過ぎ、11月中旬〜11月下旬頃に見頃を迎えます。

写真協力/(一社)八幡市観光協会

神應寺に眠る豪商・淀屋辰五郎とは!?

本堂西側の墓地には大坂に淀屋橋を架橋した100万石の大名も凌ぐといわれた大豪商・5代目淀屋辰五郎(よどやたつごろう/淀屋廣當・よどやこうとう)の墓があります。

淀屋辰五郎は、家督を継いでわずか3年後の宝永2年(1705年)、22歳の時、全財産を没収される闕所(けっしょ)となり、大坂から所払いとなっています。
1年に1万貫(現在の価値にすると100億円)などとあまりに遊興が過ぎ、「町人の身分に過ぎた振る舞いがあった」とされていますが、西国大名への大名貸しの借金をチャラにするという狙いがあったとも推測できます。
処分された財産は金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪などで、当時の淀屋の総資産は20億両(現在の貨幣価値に換算すると200兆円)。
諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(100兆円)ともいわれ、その財力が武家社会にも大きな影響を及ぼしていたのです。
宝永5年(1708年)、近松門左衛門の浄瑠璃『淀鯉出世滝徳』(よどごいしゅっせのたきのぼり)は、この淀屋辰五郎事件を描いたものです。
5代目淀屋辰五郎(淀屋廣當)江戸に潜伏後、八幡柴座の地で余生を送り、弱冠30歳余でこの世をさり、神應寺に葬られています。

神應寺
名称 神應寺/じんのうじ
所在地 京都府八幡市八幡西高坊24
関連HP 八幡市公式ホームページ
電車・バスで 京阪本線八幡市駅から徒歩5分
駐車場 なし
問い合わせ 神應寺 TEL:075-981-2109/FAX:075-981-2347
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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