南禅寺の塔頭、金地院(こんちいん)の境内にある東照宮。国の重要文化財に指定される社殿は、京都唯一の権現造りで日光同様の鮮やかな彩色が施されています。金地院中興の祖である以心崇伝(いしんすうでん=金地院崇伝)は、上野の寛永寺を開いた天海僧正(てんかいそうじょう)とともに徳川家康の側近で「黒衣の宰相」とも呼ばれていました。
家康の遺言で祀られた金地院の境内にある東照宮
『徳川実紀』によれば、徳川家康は駿府城で臨終に際して、以心崇伝(金地院崇伝)、天海、側近の本多正純を呼び、次のように遺言しています。
「久能山に納め、御法会を江戸増上寺、靈牌は三州大樹寺、御周忌終て下野国日光山へ小堂を營造、京都には金地院に小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし」(台徳院殿御実紀四十二巻)。
というわけで、家康が遺言に残した廟所は、久能山、日光、そして南禅寺金地院の3ヶ所。
つまりは久能山東照宮、日光東照宮と並んで、本来ならば「三大東照宮」と呼ぶべき由緒正しい東照宮なのです。
その後、徳川の治世には多くの東照宮が全国に創建されていますが(全国に700社が創建されたと推測されています/現存するのは130社ほど)、遺言で残したのは3ヶ所しかありません。
ただし、徳川家康の死後、家康の神号をめぐって臨済宗の僧である以心崇伝(金地院崇伝)と天台宗の天海僧正との意見が対立(崇伝は明神を天海は山王之神道による権現を主張)。
結果的に、天海僧正が持論を押し通して、それまでの吉田神道での神号とは異なる、東照大権現という神号となったのです。
結果として権力闘争に敗れた形の以心崇伝(金地院崇伝)ですが、金地院にも東照宮を勧請することになり、家康の遺髪と念持仏を納める社殿として寛永5年(1628年)に造営されています。
江戸時代には金地院東照宮を警護するため京都所司代の番所が置かれていました。
日光東照宮の社殿群は、3代将軍・徳川家光が、寛永13年(1636年)に造替したもの。
その後、元禄6年(1693年)、正徳4年(1714年)に修復が行なわれています。
本殿、石の間、拝殿が国の重要文化財に指定。
建物自体では日光よりも金地院東照宮の方が歴史あることになります。
江戸時代には東の日光、西の金地院というくらいに威光があったと推測できます。
金地院東照宮 | |
名称 | 金地院東照宮/こんちいんとうしょうぐう |
所在地 | 京都府京都市左京区南禅寺福地町86-12 |
電車・バスで | JR京都駅から市バスで34分、南禅寺永観堂前下車、徒歩8分。または地下鉄東西線蹴上駅からインクラインをくぐり歩行者専用道で徒歩5分 |
ドライブで | 名神高速道路京都東ICから約14km |
駐車場 | 南禅寺駐車場(50台/有料) |
問い合わせ | 金地院 TEL:075-771-3511/FAX:075-752-3520 |
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