新大仏寺

新大仏寺

三重県伊賀市大山田地区の山中にある真言宗智山派の寺、新大仏寺。建長2年(1202年)、東大寺を再建した高僧、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげんの開基で、源頼朝が後鳥羽法皇の勅願寺として創建。快慶作の毘盧舎那如来坐像(びるしゃなにょらいざぞう)が祀られ、地元では「阿波の大仏さん」として親しまれています。

東大寺大仏復興時のモデルといわれる大仏を拝観

新大仏寺

毘盧舎那如来坐像は、東大寺大仏復興時のモデルともなったといわれる大仏で高さ4.05m、国の重要文化財。
東大寺再建の際には、この地が大仏殿用材の調達拠点となっており、東大寺とのかかわりが深く、重源が、全国7ヶ所に配した東大寺七別所(伊賀別所、播磨別所、周防別所、高野新別所、渡辺別所、備中別所、重源の没地の東大寺別所・浄土堂)のひとつ、東大寺伊賀別所。

総高は6m(像高4m)の毘盧舎那如来坐像ですが、もともとは盧遮那仏ではなく、立像の阿弥陀如来で頭部のみが快慶の造立(頭部には快慶の銘が入っています)、それ以外は江戸時代中期の補作です。
大仏左の俊乗房重源像、右側の僧形坐像はともに鎌倉時代の作で国の重要文化財。

境内には、松尾芭蕉が貞亨5年(1688)、藤堂新七郎の邸にに招かれた際に詠んだ「丈六に 陽炎高し 石の上」(1丈6尺の台座に春の陽炎が立ち上っている。陽炎の中に蜃気楼のように仏の像が見えている)の句碑(『笈の小文』)が立っています。
芭蕉が新大仏寺を訪ねた時には、大仏は山崩れで台座が残されていたのです。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、新大仏寺も荒廃し、元文年間(1736年〜1741年)にようやく再興されています。

本堂は、寛永9年(1632年)、伊勢津藩第2代藩主・藤堂高次(とうどうたかつぐ=藤堂高虎の子)が雨乞い祈願成就の御礼で寄進したもの(元俊乗房重源像を祀った由縁から上人堂とも)。
元文3年(1738年)再建の大師堂(当初は護摩堂)は、幕末のペリー来航の際、国難消除の祈祷をしたと伝えられています。
現存する大仏殿は、延亭5年(1748年)の再建で、現在は釈迦如来を本尊にしています。

新大仏寺

東大寺大仏を再建した俊乗坊重源

斉衡2年(855年)の大地震によって落下した大仏の頭部は、修復されたものの、治承4年(1180年)、平重衡(たいらのしげひら=平清盛の五男)の南都焼討(平清盛の命による奈良寺社勢力の掃討作戦)で大仏殿など東大寺の堂塔伽藍は一宇も残さず焼き尽され、多数の僧侶達が焼死し、大仏も焼失。
治承5年(1181年)、大勧進に任命された俊乗房重源によって復興事業が始まり、源頼朝の全面協力を得て、宋の技術者・陳和卿(ちんなけい)の助力で、大仏と大仏殿など再建。
文治元年8月28日(1185年9月23日)、後白河法皇を導師として「大仏開眼供養」が、さらに建久6年(1195年)に「大仏殿落慶供養」が営まれています。
建永元年6月5日(1206年7月12日)に86歳で没しているので、新大仏寺の開基は最晩年の84歳のとき。
重源上人坐像が現存するのは伊勢別所の新大仏寺、阿弥陀寺(周防別所/山口県防府市)、浄土寺(播磨別所/兵庫県小野市)の3ヶ所のみ。

新大仏寺
名称 新大仏寺/しんだいぶつじ
所在地 三重県伊賀市富永1238
関連HP 新大仏寺公式ホームページ
電車・バスで JR柘植駅からタクシーで20分
ドライブで 名阪国道南在家ICから約11km
駐車場 60台/無料
問い合わせ 新大仏寺 TEL:0595-48-0211
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
浄土寺

浄土寺|小野市

兵庫県小野市にある高野山真言宗の寺、浄土寺。一帯は平安時代後期の久安3年(1147年)年頃、東大寺の荘園(東大寺領大部荘)となった。平氏の兵火によって焼失した東大寺を再建するため、大勧進職・俊乗房重源は、大部荘を東大寺再建の経済的拠点(東大

 

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