宮崎県都城市、早水神社の北東500mにある史跡が祝吉御所跡(島津氏発祥の地)。文治元年(1185年)、鎌倉幕府御家人の惟宗忠久(これむねただひさ)は、源頼朝からこの地の荘園「島津の荘」の下司職(げすしき)に任命され、この地が島津と呼ばれており、忠久は祝吉御所(いわよしごしょ)や堀之内御所を営んで、島津を名乗ったと伝えられています。
島津荘の惣地頭職に就任し、島津氏を名乗る
惟宗忠久は、文治元年8月17日(1185年)に島津荘下司職に、そしてその後まもなく、惣地頭職に就任したと伝えられ(同年、信濃国塩田荘地頭職にも就任)、これが南九州との関わりの発端となっているのです。
文治2年(1186年)、現在の出水市(鹿児島県)にある木牟礼城(きのむれじょう)に入り、その後、日向国島津院(宮崎県都城市)の堀之内御所に移ったとされていますが、後世(江戸時代)の史書の記載にもばらつきがあって定かでありません。
島津忠久(惟宗忠久)は、その後、薩摩・大隅・日向の3ヶ国の守護となりますが、建仁3年(1203年)の比企の乱(比企能員の変)によって守護職を罷免され(この時初めて守護として初めて任地の大隅国に下向)、建暦3年(1213年)、薩摩守護のみ再任されています。
ただし、島津氏の当主で南九州への土着が確認できるのは5代・島津貞久以降のこと。
初代の島津忠久も実は九州下向の記録はほとんどなく、生涯鎌倉で過ごしています。
島津荘は、平安時代中期、万寿年間(1024年~1028年)に大宰府の大監(たいげん)だった平季基(たいらのすえもと)が開いた後に薩摩・大隅・日向の半分以上を占めて日本最大となる荘園(平季基は荘園を開墾し、関白・藤原頼通に寄進)。
万寿3年(1026年)に島津荘に移り、荘官として島津荘の経営にあたっています。
惟宗忠久が島津姓を名乗ったのは、日本最大の島津荘を本貫にしようとしたから。
祝吉御所跡の発掘調査で、道路の跡や柱の穴の痕跡が見つかっていますが、荘園を統括する政所別当が勤務した政所(まんどころ)の跡とも推測でき、惟宗忠久の屋敷というのはあくまで伝承の域を出ない説となっています。
祝吉御所跡(島津氏発祥の地) | |
名称 | 祝吉御所跡(島津氏発祥の地)/いわよしごしょあと(しまづしはっしょうのち) |
所在地 | 宮崎県都城市郡元町3420 |
関連HP | 都城観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR三股駅から徒歩30分 |
ドライブで | 宮崎自動車道都城ICから約7.2km |
駐車場 | 5台/無料 |
問い合わせ | 都城観光協会 TEL:0986-23-2460/FAX:0986-23-2450 |
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