二天門跡(村上義光公忠死之碑)

二天門跡(村上義光公忠死之碑)

奈良県吉野郡吉野町、吉野山の金峯山寺蔵王堂の前にあるのが、二天門跡(村上義光公忠死之碑)。北条方(鎌倉幕府軍)の攻撃で、吉野城落城の際、村上義光(むらかみよしてる)が大塔宮(おおとうのみや=護良親王・もりよししんのう/後醍醐天皇の皇子)の鎧兜を身につけて身代わりとなった場所です。

村上義光が討ち死にした門はここにあった!

元弘3年(1333年)、北条方(鎌倉幕府軍)は6万の大軍で吉野城(蔵王堂を中心に吉野山全体が山城)を取り囲み(元弘の乱)、大塔宮(護良親王)も自決を覚悟しますが、忠臣・村上義光は、大塔宮(護良親王)の身代わりとなり、討ち死に。
大塔宮(護良親王)は、現在の奈良県道257号(才谷吉野山線)の分岐する勝手神社横の谷を抜け、西の高野山へと無事に逃れています。

大塔宮(護良親王)の鎧兜を身に着け、村上義光が最期を遂げた地が、金峯山寺の二天門(『太平記』巻第七吉野城軍事などによる)。

金峯山寺では国宝の蔵王堂の南に位置する仁王門(国宝)が有名ですが、往時には南側の正面に二天門が建っていました。
金峯山寺の蔵王堂は大峯山寺の本堂が山上座王堂と呼ばれるのに対し、山下座王堂と呼ばれ、山下蔵王堂が大峯山向き(南向き)に建っていることから考えても二天門が重要な門だったことがわかります。
世界遺産に登録される大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は、熊野本宮から大峯山を経て吉野山に向かうのが順峯(じゅんぷ)、逆に吉野山から熊野本宮に向かうのが逆峯(ぎゃくふ)で、順峯の修験者を迎えるのが二天門、逆峯の門が仁王門ということに。

残念ながら、二天門は、正平3年(1348年)に焼失。
中門、大塔、食堂(じきどう)、回廊などとともに失われ、今はなく、二天門跡には「村上義光公忠死之所」と刻まれた石碑が立っています。

二天門跡(村上義光公忠死之碑)
名称 二天門跡(村上義光公忠死之碑)/にてんもんあと(むらかみよしてるこうちゅうしのひ)
所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山2498金峯山寺境内
関連HP 金峯山寺公式ホームページ
電車・バスで 近鉄吉野線吉野駅から徒歩40分。または、ロープウェイ吉野山駅から徒歩10分
ドライブで 西名阪自動車道郡山ICから約34km
駐車場 下千本駐車場(100台/観桜期は有料)
問い合わせ 金峯山寺 TEL:0746−32−8371/FAX:0746−32−4563
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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