威徳天満宮

威徳天満宮

奈良県吉野郡吉野町、吉野山の金峯山寺蔵王堂のすぐ横に鎮座する古社が、威徳天満宮。社伝によれば、天徳3年(959年)の創建とも、天慶年中(938年~947年)、如意輪寺を創建した日蔵道賢(にちぞうどうけん)が勧請したともいわれる古社。

蔵王堂横の天満宮には吉野山らしい由来が!

椿山寺(竹林院の前身、聖徳太子の創建との伝承も)で出家し、平安時代中期の修験者・日蔵道賢は、天慶4年(941年)、大峯山中の笙の窟で断食修行をしています。
その時、日蔵は昏睡状態で冥府六道に導かれ、金峰山浄土で菅原道真に会い、地獄の鉄窟では苛責の苦しみをうけている醍醐天皇と藤原時平を見ています『道賢上人冥途記』。
その時、醍醐天皇から、生き返って菅原道真の霊を祀ってほしいと懇願され、日蔵は蘇ったというのです。

このことから、醍醐天皇(だいごてんのう=藤原時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷)を死に至らしめたのは太政威徳天(だいじょういとくてん)、つまりは菅原道真の霊力だと悟り、菅原道真の霊(天神)を慰めるため吉野山に天満宮を建立したのが始まり。

小さな社ですが、吉野山の霊気を感じさせる修験の歴史を伝える重要な地といえるのです。

威徳天満宮の江戸時代前期建築の本殿は、豊臣秀頼の改修による華麗な桃山様式を残し、奈良県の文化財に指定。
社前の石灯籠は享保13年(1728年)の寄進。

菅公聖蹟二十五拝(かんこうせいせきにじゅうごはい)の第7番にも数えられています。

威徳天満宮
名称 威徳天満宮/いとくてんまんぐう
所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山2498金峯山寺境内
電車・バスで 近鉄吉野線吉野駅から徒歩40分。または、ロープウェイ吉野山駅から徒歩10分
ドライブで 西名阪自動車道郡山ICから約34km
駐車場 下千本駐車場(100台/観桜期は有料)
問い合わせ 金峯山寺 TEL:0746−32−8371/FAX:0746−32−4563
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
如意輪寺

如意輪寺

奈良県吉野町の吉野山からは谷ひとつ挟んで離れた地に建つ浄土宗の古刹が如意輪寺(にょいりんじ)。平安時代の延喜年間(901年~922年)創建で、後に後醍醐天皇が吉野に行宮(あんぐう)を定めた際に勅願寺となり、本堂背後には吉野で崩御した後醍醐天

後醍醐天皇導稲荷

後醍醐天皇導稲荷

奈良県吉野郡吉野町、金峯山寺蔵王堂の近くに鎮座するのが、後醍醐天皇導稲荷(こだいごてんのうみちびきいなり)。建武の新政に失敗し、花山院に幽閉されていた後醍醐天皇が京を脱出し、吉野山に逃れる際、道に迷った後醍醐天皇を伏見の神仏が導いたとされ、

四本桜(大塔宮吉野城本陣跡)

四本桜(大塔宮吉野城本陣跡)

奈良県吉野郡吉野町、吉野山の金峯山寺蔵王堂の前の玉垣に囲まれた一画は、鎌倉幕府倒幕の元弘の乱で大塔宮(おおとうのみや=護良親王・もりよししんのう/後醍醐天皇の皇子)が蔵王堂を本陣として山上の城塞化を押し進めた吉野城本陣の跡。大塔宮(護良親王

二天門跡(村上義光公忠死之碑)

二天門跡(村上義光公忠死之碑)

奈良県吉野郡吉野町、吉野山の金峯山寺蔵王堂の前にあるのが、二天門跡(村上義光公忠死之碑)。北条方(鎌倉幕府軍)の攻撃で、吉野城落城の際、村上義光(むらかみよしてる)が大塔宮(おおとうのみや=護良親王・もりよししんのう/後醍醐天皇の皇子)の鎧

吉野朝宮跡(実城寺跡)

吉野朝宮跡(実城寺跡)

奈良県吉野郡吉野町、吉野山の金峯山寺蔵王堂の西側、現在は南朝妙法殿が建っている場所が、南北朝時代に南朝4代の天皇(後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇)の皇居があった吉野朝宮跡(実城寺跡)。建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野山に開

金峯山寺・役行者像

金峯山寺・役行者像

奈良県吉野郡吉野町、吉野山の中心、金峯山寺・蔵王堂の西、南北朝時代に南朝の皇居があった南朝妙法殿は、脳天大神龍王院からの石段が上がってくる場所。その石段455段を上りきった場所に立つのが大峯山を開いた修験道の開祖・役行者像(えんのぎょうじゃ

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ