奈良県磯城郡田原本町にある弥生時代の環濠集落の跡が、唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)。一帯は唐古・鍵遺跡史跡公園として整備され、楼閣を復元するなど弥生時代の「風景」の再現が行なわれています。公園全体のガイダンスの場となる「遺構展示情報館」も設置され、弥生時代の暮らしぶりを解説。
弥生時代、近畿地方の盟主的な環濠集落
唐古・鍵遺跡史跡公園には、「復元楼閣」、「遺構展示情報館」のほか、大型建物跡を柱のみで表現する「弥生の建物広場」、土器の野焼きや火起こし、復元土器を使った炊飯など、さまざまなイベントが行なわれる「生活体験広場」、当時の植生に即した樹木や草花を植栽した「弥生の林エリア」、集落を囲んだ環濠を復元した「多重環濠エリア」などがあります。
復元楼閣の横に広がる唐古池は、江戸時代に築造された農業用溜池で、弥生時代のものではありませんが、池の底にも遺跡が眠っています。
実は唐古遺跡の発掘は、皇紀2600年に備え、奈良盆地を縦断する国道12号の開削で、盛り土が唐古池から採取された際に遺物が出土。
昭和11年から当時、宮滝遺跡の発掘などを担当した考古学者・末永雅雄(すえながまさお=橿原考古学研究所初代所長)らによる発掘調査が最初で、出土した膨大な土器は、弥生時代の時期区分の基準をつくり、弥生時代の研究を大きく進展させたのです。
国道24号沿いにありますが、駐車場があるのは国道の反対側(東側)です。
多重の環濠に囲まれた遺跡からは、大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構が発掘され、大環濠(内濠)は直径400mの範囲を囲んでします。
遺跡からは、木製品(弥生式土器、農工具・容器など)、石器(石鏃や石包丁)、骨角器、卜骨(ぼっこつ=獣骨などを焼き、その割れ目の形で吉凶を占う道具)などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入ったヒスイ製勾玉、楼閣が描かれた絵画土器などが出土。
唐古・鍵遺跡から大量に出土した弥生土器は、大和様式弥生土器として、近畿地方の標準的な土器編年に位置づけられています。
装身具としては、新潟県姫川産のヒスイが7点出土するなど、広域な交流があったことが判明し、弥生時代の重要な勢力の拠点だったと考えられています。
唐古・鍵遺跡から出土した遺物は、国の重要文化財に指定。
公園内の「遺構展示情報館」のほかに、「唐古・鍵考古学ミュージアム」があり、復元楼閣のモデルとなった建物が描かれた土器片(第47次調査で出土)など、出土した遺物の多くはそちらに展示されているので、あわせて見学を。
公園に隣接して、道の駅「レスティ唐古・鍵」があり、農産物の直売コーナー、喫茶・軽食コーナーがあります。
弥生時代に環濠集落が生まれたわけは!?
唐古・鍵遺跡は弥生時代前期に始まり、古墳時代前期まで600年間以上継続しています。
唐古・鍵遺跡は弥生時代前期の段階では3つの集団に分かれて集落を形成し、前期の後半にそれぞれの集落が環濠を持つようになります。
弥生時代中期に、それぞれの集落を統合してムラ全体を囲む大環濠が掘削されます。
幅8mもの大環濠の外側には、さらに幅5mほどの濠が4重〜5重になって巡らされています。
何重にも掘られた環濠は、当初は害獣から集落を守るための役割があり、弥生時代中期(大環濠の誕生)から巨大なムラの誕生で戦闘への備えへと変化しています。
沖積地に築かれた唐古・鍵遺跡の場合には、河川を巧みに取り込むことによって水害などの災害の防止、物資を運ぶ運河の役割など都市的な機能も果たしていたと推測されています。
また、弥生時代の環濠集落には軍事施設としての機能が見られることから、「城の起源」ともいわれています。
古墳時代の初めにも環濠が掘り直されていますが、古墳時代中期にはムラが消滅し、唐古池周辺に古墳が築かれています。
唐古・鍵遺跡史跡公園 | |
名称 | 唐古・鍵遺跡史跡公園/からこ・かぎいせきこうえん |
所在地 | 奈良県磯城郡田原本町唐古50-2 |
関連HP | 唐古・鍵遺跡史跡公園公式ホームページ |
電車・バスで | 近鉄石見駅から約20分 |
ドライブで | 京奈和自動車道三宅ICから約2.5km |
駐車場 | 62台/無料 |
問い合わせ | 唐古・鍵遺跡史跡公園 TEL:0744-34-5500/FAX:0744-34-5511 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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