禁教令が出された江戸時代初期に、長崎在住の華僑(明国人)が建立した黄檗宗(おうばくしゅう)の寺(唐寺)、興福寺、福済寺、崇福寺は、いずれも「福」の字が入ることから長崎三福寺と呼ばれ、さらに聖福寺を加えて長崎四福寺とも呼ばれています。
家康のキリシタン禁教令
慶長14年(1609年)、日野江藩主・有馬晴信(ありまはるのぶ)の朱印船がポルトガル領マカオ寄港時にポルトガル船の船員との間に騒動が起こり、マカオ総司令アンドレ・ペソアが鎮圧し、晴信側の水夫60名が死亡するという事件が勃発。
アンドレ・ペソアは、駿府に赴き、大御所・徳川家康に陳弁する旨を申し出ますが、長崎奉行・長谷川藤広はポルトガルとの関係悪化を念頭に、これを拒みます。
長谷川藤広は、報復を考える有馬晴信に、ペソアと商船の捕縛を家康に請願するように仕向けます。
家康は晴信のペソアへの報復を許し、実行の監視役として、長谷川藤広の家臣で幕臣・本多正純(ほんだまさずみ)家臣となっていた岡本大八を長崎に派遣。
ペソアには駿府への召喚を命じますが、ペソアは長崎港停泊の船で自爆してしまいます。
日本との外交接点を失ったポルトガルは貿易再開を図るため、家康、そして2代将軍・徳川秀忠に謁見し、貿易の再開が認められます。
慶長17年(1612年)春、与力・岡本大八と有馬晴信との饗応事件が発覚し、両者がキリシタンであり、また徳川家康の旗本などにも信者がいることが判明。
この岡本大八事件を契機にして、幕府は慶長17年8月6日(1612年9月1日)、「伴天連門徒御制禁也。若有違背之族者忽不可遁其罪科事」と全国的にキリスト教信仰禁止を布告したのです。
慶長18年12月23日(1614年2月1日)、金地院崇伝(こんちいんすうでん)によって「伴天連追放文」が起草され、神道、仏教、儒教の三教一致思想を基礎とする「神国思想」によるキリスト教排撃を宣言。
宣教師や有力信徒・高山右近ら148名は長崎からマカオ、さらにマニラへ追放され、また各地でキリシタン弾圧が開始されています。
長崎に唐寺が創建されたワケは!?
キリシタン禁教令が出されると、キリシタンではないことを寺院に証明させる寺請制度が定められ、寺は檀家に対して自己の檀家であることを証明するために寺請証文(てらうけしょうもん)を発行するようになりました。
こうした世相の背景で、当時、通訳、そして貿易商として活躍する長崎在住の華僑(明国人)も唐寺を建立する必要性が高まりました。
それまでは、浄土宗の悟真寺を菩提寺にしていましたが、独自の檀那寺を創建する必要に迫られます。
最初にできたのが寛永元年(1624年)創建の興福寺で、貿易商だった真円(しんえん)が出家し、仏殿および媽祖堂を建立したのが始まりです。
興福寺
創建:寛永元年(1624年)
開山:真円
宗派:黄檗宗
所在地:長崎県長崎市寺町4-32
文化財:大雄宝殿、旧唐人屋敷門は国の重要文化財、山門、媽姐堂、鐘鼓楼などは長崎県の文化財に指定
備考:媽姐堂があり、南京寺とも称されています
福済寺
創建:寛永6年(1628年)
開山:覚海(福建省泉州府出身)
宗派:黄檗宗
所在地:長崎県長崎市筑後町2-56
備考:長崎の原爆で堂宇は焼失、現在は万国霊廟長崎観音が建っています
崇福寺
創建:寛永6年(1629年)
開山:超然(福建省福州府出身)
宗派:黄檗宗
所在地:長崎県長崎市鍛冶屋町
文化財:大雄宝殿・第一峰門は国宝、三門・鐘鼓楼・護法堂・媽姐門などは国の重要文化財
備考:媽祖堂があり、檀家に福建省の出身者が多いため福州寺や支那寺と呼ばれていました
聖福寺
創建:延宝5年(1677年)
開山:鉄心道胖
宗派:黄檗宗
所在地:長崎県長崎市玉園町3-77
文化財:大雄宝殿・天王殿・鐘楼・三門は、国の重要文化財、梵鐘、惜字亭、石門は長崎県の文化財に指定
備考:唐寺3ヶ寺の目付寺とも
長崎三福寺・長崎四福寺とは!? | |
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