明治元年・慶応4年(1868年)、現在の新潟県長岡市を主戦場にした北越戊辰戦争の際、5月19日の早朝に西軍(新政府軍=薩長連合軍)が奇襲攻撃で上陸したのが、長岡城の西、信濃川右岸の中島村(現・長岡市中島1丁目)。これが西軍上陸の地で、中島村には当時、長岡藩のフランス式兵学所も設けられていました。
北越戊辰戦争で長岡攻略の命運を分けた渡河地
新政府軍が進軍した時、信濃川は梅雨で増水し、かなり危険な状態でしたが、長州藩の奇兵隊と長府藩兵(長府藩=現・下関市長府)からなる新政府軍は、榎峠の戦いで大打撃を受けた味方の劣勢を挽回するため、手薄となった長岡城下を急襲する起死回生の強行渡河に打って出たのです。
奇兵隊振武隊総監・三好重臣(みよししげおみ=三好軍太郎)率いる長州藩が7隻の小舟で朝霧の中を渡河。
その後、下流から薩摩藩が渡河し、高田藩、金沢藩と続き、左岸の本大島村(大島地区)から7艘の船で中島村に上陸した後は、周辺を焼き払って進軍。
これに槙下村にいた薩摩藩(長州藩に比べて慎重派でした)も加わり、長岡城下を急襲しました。
一方、河井継之助が軍事総督を務める長岡藩は、南に4km離れた摂田屋(現・長岡市摂田屋)に本陣を置いていたため、当時城下の守備が手薄となっており、結果的に長岡城は即日落城となっています。
長岡藩主・牧野忠訓(まきのただくに)は、奥羽越列藩同盟の会津に逃れ、河井継之助率いる長岡軍も栃尾に退却しています。
河川改修工事に伴って、信濃川から200mほど離れた地には、東西両軍戦死者之墓と明治戊辰戦蹟顕彰碑が建っている。
浮世絵に見る北越戊辰戦争
時の政府に配慮して上杉景勝・景虎の家督争い(御館の乱)に見立てて描かれた北越戊辰戦争の浮世絵が『越後国上杉景勝家督争合戦』。
明治初年に描かれた浮世絵で、当時の武器や格好から北越戊辰戦争を描いたことは明確で、当時の人々もそれをわかって眺めていたもの。
北越戊辰戦争・西軍上陸の地 | |
名称 | 北越戊辰戦争・西軍上陸の地/ほくえつぼしんせんそう・せいぐんじょうりくのち |
所在地 | 新潟県長岡市中島1-10-17 |
関連HP | 長岡市公式ホームページ |
電車・バスで | JR長岡駅から徒歩19分 |
ドライブで | 関越自動車道長岡ICから約5.3km |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 長岡市観光企画課 TEL:0258-39-2344 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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