蓮華寺

蓮華寺

仲間由紀恵主演の映画『大奥』(平成18年)のモチーフとなった絵島生島事件の悲劇のヒロインの絵島は、生前日蓮宗に帰依し、高遠城下の蓮華寺に葬られました。宝物館(見学には予約が必要)には、絵島の遺品や検死問答書などを収蔵。大正5年、文豪・田山花袋が寺を訪れ絵島の墓を確認し、以後、多くの文人が蓮華寺を訪れています。

絵島生島事件の悲劇のヒロインの絵島の墓がある

江戸城大奥御年寄の絵島(正しくは江島)は、1714(正徳4)年、月光院(7代将軍・徳川家継の生母、お喜世の方)の名代として6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)の墓参りのため、寛永寺、増上寺へ参詣。
その帰路、懇意にしていた呉服商・後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東銀座あたり)の芝居小屋に山村座に立ち寄り、芝居の後に宴会を開いて帰城が遅れます。

山村座の役者・生島新五郎との密会を疑われ、拷問にかけられますが、自白がなく、島流しが決定。
月光院が減刑を嘆願したため、信州高遠藩・内藤清枚の預かりに。
絵島の兄で旗本・白井平右衛門勝昌斬首、生島は三宅島への遠島、山村座座元5代目・山村長太夫も伊豆大島への遠島(山村座は廃座)、加えて江戸市中の芝居小屋は夕刻の営業も禁止という重い罪となりました。
事件後は、6代将軍・徳川家宣の正室だった天英院(てんえいいん)が大奥で勢力を伸ばし、徳川吉宗が将軍職に就く契機になったという説もあります。

絵島は、高遠の絵島花畑屋敷(絵島囲み屋敷)に幽閉され、朝夕二度、一汁一菜という厳しい生活を送りました。
唯一許された外出が、信仰する日蓮宗の寺、蓮華寺でした。
信濃高遠藩の初代藩主・鳥居忠春(とりいただはる)が1651(慶安4)年、高遠城下に移した寺。
27年間の幽閉生活の後、1741(寛保元)年没。

大正元年、長谷川時雨の台本『江島生島』が歌舞伎座で初演され、大正5年に田山花袋が絵島の墓を「発見」。東京の歌舞伎関係者によって墓を囲む玉垣が築かれています。
法名は「信敬院妙立日如大姉」。

女流歌人・今井邦子も、そのひとりで、たびたび蓮花寺を訪れ、没後200年の昭和15年に「向う谷に日かげるはやしこの山に絵島は生きの心堪へにし」の歌碑を建立しています。
「えにしなれや もも年の後 古寺の 中に見出でし 小さきこの墓」(田山花袋)。
「あわれなる 流されひとの 手弱女は 媼となりて ここに果てにし」(斎藤茂吉)。
「物語まぼろしなりし わが絵島 墓よやかたよ 今うつつの里」(有島生馬)。

蓮華寺は、13種類、1200株シャクヤク(見頃は例年5月下旬〜6月上旬)、ボタン(5月中旬)、アジサイ(6月)の名所としても有名。
アジサイは絵島の不義密通の相手とされた生島が流された三宅島から移植したもの。

高遠城址公園に隣接した伊那市立高遠町歴史博物館の敷地に、絵島が幽閉された建物が復元され「絵島囲み屋敷」として公開されています。

浮世絵に見る 絵島生島事件

絵島生島事件
生島
絵島生島事件
絵島

『新撰東錦絵 生嶋新五郎之話』(明治19年刊行)に描かれた生島新五郎と絵島。
歌舞伎座での初演も大正元年なので、江戸時代には堂々と大奥のスキャンダルを描いたり、上演することはご法度だったと推測できます。

蓮華寺
名称 蓮華寺/れんげじ
Rengeji Temple
所在地 長野県伊那市高遠町長藤的場105
関連HP 蓮華寺公式ホームページ
電車・バスで JR伊那市駅からJRバス高遠行きで24分、終点下車、徒歩15分
ドライブで 中央自動車道伊那ICから約12km
駐車場 40台/無料
問い合わせ 蓮華寺 TEL:0265-94-2400
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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