岡山県岡山市北区にある備中高松城主・清水宗治首塚。羽柴秀吉は、備中高松城の水攻めの際、本能寺の変で織田信長が討たれたことを秘匿して、城主・清水宗治の自刃で和睦を実現しています。清水宗治首塚は、明治43年、羽柴秀吉の本陣跡、石井山持宝院境内から、高松城本丸跡に移されています。
自刃で将兵の命を救った備中高松城主の首塚
天正10年6月4日(1582年6月23日)、清水宗治、兄・清水宗知(月清入道/げっせいにゅうどう=宗治自刃の時、ともに切腹した宗治の兄・清水宗知)、弟・難波宗忠、援将の末近信賀(せちかのぶよし=毛利からの加勢として備中高松城に入城)らととも水攻めによって孤立した高松城から小舟に乗って黒田官兵衛(黒田孝高)が陣を構える蛙ヶ鼻(水攻め用の堤防を築いた場所)の前に漕ぎ出し、検使・堀尾茂助(堀尾吉晴)の面前で、秀吉から贈られた酒肴上茶を受け、最後の酒宴を開きます。
謡曲『誓願寺』を舞い納め、静かに辞世を口吟して切腹、高市之允がこれを介錯。
秀吉は「古今武士の明鑑なり」と讃えたと伝えられますが、丁寧な埋葬からも、秀吉の姿勢をうかがい知ることができます。
記録によると清水宗治は、本陣での羽柴秀吉首実検の後、持宝院境内に1基の塔を建て手厚く葬るとあり、移転時の調査で埋葬された亀山焼の瓶(かめ)のなかに懐刀の3つに折れたもの、素焼の酒杯、無数の骨片が入っていたことが判明しています。
五輪塔前部に1体、後部に2体の地蔵尊が刻まれていますが、前部が清水宗治で後部の2体は月清入道と末近信賀と伝えられています。
清水宗治首塚は、高松城水攻め史跡公園(蛙ヶ鼻築堤跡)とともに「備中高松城の水攻め」の貴重な遺構となっています。
清水宗治首塚 | |
名称 | 清水宗治首塚/しみずむねはるくびづか |
所在地 | 岡山県岡山市北区高松 |
電車・バスで | JR備中高松駅から徒歩10分 |
ドライブで | 岡山自動車道岡山総社ICから約3km |
駐車場 | 備中高松城址公園駐車場(30台/無料) |
問い合わせ | 高松城址公園資料館 TEL:086−287−5554/FAX:086−287−5554 |
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