福澤諭吉旧居・福澤諭吉記念館

福澤諭吉旧居・福澤諭吉記念館

大分県中津市留守居町にあるのが、福澤諭吉旧居・福澤諭吉記念館。数回の外遊で学んだ知識で多くの子弟の教育にあたり、幕末から明治の文明開花期、慶應義塾を創立し、日本の民主化に深く関わった啓蒙思想家・福沢諭吉の旧居で、福沢諭吉関連の資料を展示する記念館が併設されています。国の史跡にもなっています。

福沢諭吉が青年時代を過ごした家

福澤諭吉旧居・福澤諭吉記念館

天保5年12月12日(1835年1月10日)、大坂堂島の中津藩蔵屋敷で下級武士の福澤百助と妻・於順の間に次男として生誕。
天保7年(1836年)秋、1歳6ヶ月で父と死別した諭吉は、母子6人で郷里の中津に帰り、蘭学を学ぶため長崎に遊学する19歳まで、故郷・中津で過ごしています。

最初に住んだ家は現存していませんが(福澤諭吉旧居の南側の駐車場の脇に表示があります)、17歳の時、筋向いの母親の実家、橋本家を買い取り移り住んだ家が、現在残されている福澤諭吉旧居。
わら葺き平屋建ての母屋と、諭吉自身が改造して2階で勉学に励んだ瓦葺きの土蔵が、当時のままに保存されています。
屋根裏から「享和三年」という墨書が見つかっているので、享和3年(1803年)築だと推測され、、裏庭に面した台所が明治時代の建増しであることが判明したため、平成元年にはその部分を撤去し江戸時代の姿に戻しています。
この福澤諭吉旧居で、明治3年、母と兄の娘を東京に迎えるために中津を訪れた際、「人倫の大本は夫婦」にあると説いた『中津留別の書』(なかつりゅうべつのしょ=故郷・中津の人々に対して書き残したメッセージ)が記されたのです。

中津時代は、白石照山(しらいししょうざん=中津藩の儒学者、漢学者で、初期の慶應義塾の中核を担う人物を育成)の塾に通い、『論語』、『孟子』、『詩経』、『書経』、『史記』、『左伝』、『老子』、『荘子』など漢学を学んでいます。
福沢諭吉の学問的・思想的源流に当たるのは亀井南冥(かめいなんめい=亀門学の祖)や荻生徂徠(おぎゅうそらい)があるのは、こうした中津時代の学(まなび)があるからです。

安政元年(1854年)、19歳のときに兄の勧めで長崎へ遊学(光永寺に寄宿)して蘭学を学んでいます。
背景には嘉永6年(1853年)の黒船来航(東インド艦隊・ペリーが浦賀来航、「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という有名な狂歌が生まれました)を契機に、海防のための砲術が重要視されるように。
福沢諭吉の兄はオランダ語で砲術書を読む必要があるため、長崎遊学を勧めたのです。
長崎では砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(南蛮貿易の通訳)からオランダ語を学び、大坂に出て適塾の塾頭と務めた後、江戸に出てさらに活躍の場を広げています。

福澤諭吉旧居一帯は公園化され、併設の「福沢諭吉記念館」には『学問のすゝめ』(『學問ノスヽメ』)の原本や遺墨、1万円刷の第1号券など、貴重な資料が展示されています。

福沢諭吉は、旧中津藩藩主・奥平昌邁(おくだいらまさゆき=版籍奉還後に中津藩知事)に英学校の必要性を説き、明治4年11月、西日本有数の英学校である中津市学校が開校。
その際に、学問の必要性を示すために記した小冊子を制作しますが、それが翌年出版された『学問のすゝめ』(『學問ノスヽメ』)初編で、有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」はその序文。
『学問のすゝめ』は、中津の青少年に学問の重要性を説くために記された指針だったということに。

福澤諭吉旧居・福澤諭吉記念館
福澤諭吉旧居・福澤諭吉記念館
名称 福澤諭吉旧居・福澤諭吉記念館/ふくざわゆきちきゅうきょ・ふくざわゆきちきねんかん
所在地 大分県中津市留守居町586
関連HP 福澤諭吉旧居・福澤諭吉記念館公式ホームページ
電車・バスで JR中津駅から徒歩15分
ドライブで 東九州自動車道上毛スマートICから約7km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 福澤諭吉旧居・福澤諭吉記念館 TEL:0979-25-0063/FAX:0979-23-2938
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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