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遠藤さんのルーツを探せ!

大姓38位の遠藤さんは、全国に35万人ほどが暮らし、シェアは0.28%となっています。遠江(とおとうみ=静岡県西部)の藤原氏=遠藤さん、近江(滋賀県)の藤原氏=近藤さん、ついでに伊勢(三重県の北部)の藤原氏=伊藤さんといずれも名門・藤原氏がルーツということに。そんな遠藤さんのルーツを探す旅は遠江から。

遠藤さんは遠江から摂津へ、さらに陸奥へと広がる

遠藤さんと近藤さんは実はよく似ている名前です。
簡単に説明すると、京の都(現在の京都市)から遠い湖(浜名湖)という意味で、遠淡海(とほつあはうみ)、それが転じて遠江(とおとうみ)。
つまりは浜松市を中心とする静岡県西部エリアのこと。

京の都から近い湖(琵琶湖)が近淡海(ちかつあはうみ)、転じて近江(おうみ)、つまりは今の滋賀県というのが古代の湖国の区分法。

つまり、遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったと推測できるのです。

平安時代の初め、天慶3年(940年)、征東大将軍・藤原忠文(ふじわらのただぶみ)は、68歳の高齢ながら平将門(たいらのまさかど)討伐のため坂東に向かっていました(平将門の乱)。
その途中、遠江国に至ったときに平将門の死を知らされます。

藤原忠文の孫・藤原為方は「遠藤六郎大夫・摂津守・惣官」となり、以後、藤原氏を出自とするこの遠藤氏は広く栄えているのです。
この系統が現在、多くの遠藤姓のルーツとなっているようで、全国の遠藤さんのルーツとしてまずは注目の流れ。

別に工藤為憲の後裔・相良維兼が、遠江守に任ぜられ遠藤氏を名乗ったとする説もありますが、いずれにしろ遠藤さんの「遠」は遠州(遠江)に通じているということに。

ここから分かれた摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の渡辺党の中心で活躍した遠藤氏も有名。

遠藤氏は渡辺氏よりも早く渡辺津(わたなべのつ=旧淀川の河口にあった瀬戸内海沿岸で最大級の港湾、現在の天神橋一帯)に居を構えていたという古代の氏族。
ある時期、渡辺津には渡辺氏と遠藤氏が拮抗するかたちで存在していたのです。

藤原為方の後裔の遠藤頼方は平氏政権下では「和泉・紀伊・摂津三ケ国総追捕使」を任され、平家の家人として勢力を有し、次に現れる、伊豆の源頼朝に挙兵を促した文覚上人(もんがくしょうにん)によって、摂津国の遠藤氏はさらに力を強めていきます。

文覚上人とは袈裟御前との悲恋から出家したと『源平盛衰記』に記される遠藤盛遠(えんどうもりとう)の後の姿。
北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王に仕えていましたが、19歳で出家しています。

こうした摂津国、渡辺党・遠藤氏の流れ、文覚上人を祖とする遠藤盛継が、応永8年(1401年)、鎌倉公方より大崎平野の志田・玉造・加美三郡の奉行に任じられて陸奥国に下向、志田郡松山城(宮城県大崎市松山千石)を居城にしています。
松山城は千石城とも称され、伊達最北端の要衝を守る城として有名。

同じ東北には仙台・伊達家を支えた家臣団として知られる遠藤家もあり、遠藤基信(えんどうもとのぶ)が伊達宗時の謀反を密告したことで伊達輝宗(だててるむね=伊達政宗の父)に認められ、その子・遠藤宗信(えんどうむねのぶ)も伊達政宗の信頼厚く宿老として伊達家に仕えています。
NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』などにも遠藤宗信は登場しています。

そして仙台藩の遠藤氏は、幕末の重臣・遠藤允信(えんどうさねのぶ)が仙台藩の戦後処理や版籍奉還などに貢献、塩竈神社(藩政時代には仙台藩・伊達家が大神主)の宮司となっているのです(現在は遠藤家ではありません)。

郡上八幡は遠藤さんゆかりの地

藩政時代に遠藤氏の居城ともなった郡上八幡城

その一方で、平家の流れを伝える桓武平氏・千葉氏族東(とう)氏の遠藤氏の流れも忘れてはなりません。
400年に渡って歌い踊り続けられてきた『郡上踊り』(ぐじょうおどり)で有名な岐阜県郡上市八幡町の八幡山に郡上八幡城がり、城下町のどこにいても山頂の城が良く見え、旧二の丸跡には「山内一豊と妻の像」が立っています。

山内一豊の妻・千代は、弘治2年(1556年)、初代郡上八幡城主・遠藤盛数(えんどうもりかず)の娘として生誕(浅井氏家臣の若宮友興の子という説もあり定かでない)。
これが事実なら大河ドラマ『功名が辻』で仲間由紀恵が演じた千代(見性院)は、遠藤さんファミリーということになります。

遠藤盛数が郡上八幡城を築くまでは、郡上一円は東氏によって支配されていましたが、美濃国郡上郡・篠脇城(しのわきじょう)城主・東常慶(とうつねよし/後に赤谷山城を居城に)は、お家騒動の後、婿養子の遠藤盛数に滅ぼされているのです(遠藤盛数の妻は東常慶の娘)。
東常慶追討の合戦の際、陣を構えたのが八幡山山頂で、戦後に八幡山に城を築いて居城にしたのです。

こうして遠藤盛数は東氏の家督を継いでいますが、東氏を名乗らず遠藤を家号としたため、本来藤原氏を出自とする遠藤氏なのですが、この美濃の遠藤氏に限れば東氏流の桓武平氏となったのです。

永禄2年(1559年)、遠藤盛数は八幡山の上に前出の八幡城を築き、郡上八幡発展の基礎を築きました。

郡上藩の初代藩主が遠藤慶隆なのは、もともと美濃の遠藤家は織田信長や豊臣氏の家臣だったのですが、関ヶ原の戦いで東軍について旧領を安堵されたから。
こうして郡上八幡城は、遠藤さんの大切なルーツのひとつとなっているのです。

郡上八幡城

1559(永禄2)年、遠藤盛数(えんどうもりかず)によって砦が築かれたのが郡上八幡城の始まり。1667(寛文7)年、6代城主・遠藤常友の時代に修復によって、幕府から城郭として認められ改修を行なっています。1755(宝暦5)年には近代史に残る

湖国・近江にも遠藤さんのルーツが

遠藤直径ゆかりの須川観音堂

ここで、近江国・浅井家きっての勇将、遠藤直経(えんどうなおつね)に登場してもらいましょう。

遠藤直経の先祖は、鎌倉時代に近江国・坂田郡須川(滋賀県米原市須川)に所領を得て近江に下向したとされ、代々にわたって須川山一帯を治めて須川城を居城にしています。
遠藤直経は姉川の戦いの際、織田軍本陣に入って織田信長と刺し違えようとしたことで知られる知勇兼備の謀将です。
織田信長暗殺計画は羽柴秀吉に機転によって妨害され、失敗。
結果、討ち死しています。

米原市須川の集落一帯が遠藤直経が築いたという須川城の城域。
美濃と近江の国境防衛に役立った出城の須川山砦は須川山の山頂に位置しています。
須川城近くには遠藤家ゆかりの須川観音堂(滋賀県米原市須川221)も残されており、遠藤直径が必勝祈願をしたといわれる十一面観音立像が安置されているので、まさに遠藤さんのパワースポットということに。

滋賀県長浜市垣籠町には遠藤塚があり、塚の脇には「姉川の合戦・遠藤直経の墓」と書かれた大きな案内板が立っていますが、ここが遠藤直経終焉の地。
この地の小字を「遠藤」といい、命日には地元の人の手で法要が執り行なわれているとのこと。

遠江に近藤さんのルーツがあり、近江に遠藤さんのルーツというのも、歴史のいたずらかもしれません。

新潟市には市を開いた遠藤さんを祀る神社が

新潟県新潟市北区葛塚の開市神社(かいちじんじゃ)は、葛塚の庄屋だった遠藤家の七郎左衛門宗寿、七郎左衛門国忠、七郎昭忠の3人が祭神という遠藤氏を祀った神社。

文久3年(1863年)、稲荷神社境内に、「開市の神」として遠藤宗寿を祀ったのが始まりで、葛塚に市場(「葛塚市」)を開きたいと運動を起こしたのが遠藤ファミリーだったのです。
葛塚市は、宝暦11年(1761年)、幕府の許可により開設されて以来という長い歴史を持つ市場で、現在も1日、5日、10日、15日、20日、25日に120店ほどが出る市が開かれています。

開市神社の建立は明治4年で、拝殿は国の登録有形文化財になっています。
商売をしている遠藤さんならここを訪れて商売繁盛の祈願をするのもいいかもしれません。

遠藤さんは比較的、東北に多い

遠藤さんは福島県で大姓6位、山形県10位、宮城県13位、鳥取県14位など、北関東から東北にかけて多いのが特長。
東北の遠藤さんは、「遠江から摂津へ、さらに陸奥へと広がる」という遠藤さんの歴史的な流れを表しているかのようです。
遠江のある静岡県では 21位と少し多い程度で、郡上八幡のある岐阜県ではなんと70位以下という結果に。
千葉や徳島では円藤姓も多く見かけます。

「近江の藤原」近藤さんは大姓35位なので、遠藤さんと近藤さんは同じくらいの勢力ということに。
ただし「伊勢の藤原」伊藤さん(大姓6位)、「加賀の藤原」加藤さん(10位)には大きく引き離されています。

代表家紋は、千葉氏族や美濃・八幡城の遠藤氏が亀甲に花角。
ほかに千葉氏族は九曜、月に星。
藤原姓の遠藤さんはは下り藤、五三桐、沢瀉(おもだか)。
このほか三つ星、十曜なども。

取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です

遠藤さんのルーツを探せ!
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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