北前船で繁栄した宿根木近くの高台に建つ、佐渡国小木民俗博物館。併設される「千石船展示館」は、安政5年(1858年)に宿根木で建造された千石船を当時の版図を基に、実物大で正確に復元した「白山丸」が展示されています。明治時代まで、日本海の物流は、太平洋側を上回り、その交易を担ったのが北前船。千石船展示館で、その大きさを実感!
全長23.75m、最大幅7.24mの「白山丸」に乗船!
元禄時代の末、つまりは18世紀の初頭から、北前船に使われる弁財船の大型化が進みました。
これが千石船。
それまでの船が250石ほどを積み込む船だったことに対し、500石、1000石を積む船が登場したのです。
船の大型化により、積み荷が増えるというだけでなく、寄港地を減らして沖合を走ることができるというメリットもあり、船主(回船業者)にとってはまさに1航海で大きな利益を生み出すことができるようになったのです。
佐渡の北前船は幕命を受け、寛文12年(1672年)に西廻り航路を開いた河村瑞賢(かわむらずいけん)が、小木湊を寄港地に指定。
蝦夷地(江差・松前)⇒出羽(酒田)⇒佐渡(小木)⇒能登(福浦)⇒但馬(柴山)⇒石見(温泉津)⇒長門(下関)⇒摂津(大坂)⇒紀伊(大島)⇒伊勢(方座)⇒志摩(畦乗)⇒伊豆(下田)⇒江戸という幕府公認の交易ルートが誕生しました。
佐渡金山で算出される金銀も、相川の鉱山町から小木湊へと運ばれて、小木で船積みされたのです。
中世には、ともに栄えた隣町の宿根木ですが、小木が公式の貿易港となったことは死活問題でした。
そこで、旧来の技術を活かして、造船業を専門とした特殊な町が誕生したのです。
そんな歴史を背景に、現代に復活した千石船展示館の「白山丸」ですが、実は500石船。
千石船というのは通称で、500石積みでも千石船と称していたのです。
隣接の佐渡国小木民俗博物館は、大正9年に建てられた宿根木小学校の木造校舎を再生した博物館。
民俗学者・宮本常一の指示で住民が持ち寄った膨大な民俗資料が収蔵されていますが、「南佐渡の漁撈用具1293点」、「船大工用具及び磯舟968点」は、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
取材協力/新潟県観光連盟、佐渡観光交流機構
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