紫香楽宮跡(宮町遺跡)

紫香楽宮跡(宮町遺跡)

京に恭仁宮(くにのみや)を造営中だった聖武天皇(しょうむてんのう)が、天平14年(742年)、恭仁宮から東国行幸への道(恭仁東北道)を開き、近江国甲賀郡(現・滋賀県甲賀市)に築いた離宮。たびたびの行幸の後、3年後に皇居と定められ、その宮殿の跡が紫香楽宮跡(しがらきのみやあと/宮町遺跡)。

天平14年〜17年に今の甲賀市信楽町にあった日本の首都

天平15年(743年)10月、聖武天皇が紫香楽宮で盧舎那仏を造営することを発願。
唐の洛陽に見立て、龍門石窟(りゅうもんせっくつ)の盧舎那仏を真似て、紫香楽宮の大仏造立を開始し、12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が進められています。

天平16年(744年)11月13日に甲賀寺に盧舎那仏像の柱が建てられますが、結局、完成することなく、東大寺盧舎那仏像(東大寺大仏)建設へと移行されています。
天平17年(745年)元旦、紫香楽宮を新京と称し、大楯槍を立て、聖武天皇は「御在所で貴族と宴す」。

大正15年に内裏野地区が「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定されましたが、平成12年に北側1kmにある宮町遺跡から大規模な建物跡が発掘され、「奈加王」、「垂見王」と記された木簡、さらには越前国からの調(税)荷札(天平15年)などが出土。
そのうち越前国からの荷札は、『続日本記』天平15年10月16日の条に東海、東山、北陸25国に今年の調庸を紫香楽宮に献上することを命じたことが記されたているのと一致。

宮町遺跡から出土した柱根を年代測定したところ、天平14年〜15年に伐採された木だということが判明。
さらに宮町遺跡の中央南側で朝堂(天皇が早朝に臣下参列のもと国儀大礼を行なう庁舎)、東朝堂跡と推測される建物跡を発掘。
平城宮や難波宮、恭仁宮にはなかった朝堂院(宮城の正庁)跡だと推測されているのです。

内裏野地区の遺跡は総国分寺として建立された甲賀寺(甲可寺)跡の可能性が高まっています。

現在は、宮町遺跡を含む19.3haが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定され、宮町遺跡(宮殿跡)、内裏野地区(寺院跡)、新宮神社遺跡(道路跡)、鍛冶屋敷遺跡(鋳造所跡)、北黄瀬地区(大井戸跡)という全体像が徐々に明らかになってきました。

発掘調査から仮宮ではなく、本格的な皇宮だったことも判明し、ここに聖武天皇の都があったことが明らかになっています。
なぜ紫香楽宮が3年ほどで、平城宮へと遷都されたかは、天平17年の4月に山火事が相次いだこと、さらに4月27日に大地震が起こったことが大きな要因となっています。
天平17年5月5日にいったん恭仁宮に行幸し、5月11日に平城宮に遷都しています。
つまり、聖武天皇は平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京と目まぐるしく遷都したことになるのです。

現在、宮町遺跡の宮殿の遺構は地下保存され、復元された構築物はありません。

紫香楽宮跡関連遺跡群調査事務所(宮町遺跡発掘調査事務所に併設)に出土遺物展示室が用意され、発掘調査で出土した遺物を展示しています。

紫香楽宮跡(宮町遺跡)
名称 紫香楽宮跡(宮町遺跡)/しがらきのみやあと(みやまちいせき)
Shigaraki no miya ato(Shigaraki capital),Miyamachi remains
所在地 滋賀県甲賀市信楽町宮町
電車・バスで 信楽高原鐵道紫香楽宮跡駅から徒歩40分
ドライブで 新名神高速道路信楽ICから約2.5km
問い合わせ 甲賀市教育委員会 TEL:0748-86-8026/FAX:0748-86-8216
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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