戦国時代から江戸時代にかけて日本一の銀山として栄えた石見銀山(いわみぎんざん)。平成19年7月には世界文化遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」に登録されましたが、銀山を治めた大森代官所跡に建つのが、いも代官ミュージアム(石見銀山資料館)です。
石見銀山全盛時代へタイムスリップする入口
いも代官ミュージアム(石見銀山資料館)の建物は明治35年に建てられた邇摩郡役所(にまぐんやくしょ)を再生したもの。
1976年に地元有志が老朽化にともない解体する計画だった建物を譲り受け、内部を改装して開館した民営の資料館で、現在はNPO法人石見銀山資料館の運営。
歴史コーナーでは、江戸幕府の石見銀山支配の諸政策、鉱山コーナーでは銀の採鉱から製錬に至る生産過程や、鉱山の経営や技術について詳しく解説しています。
石見銀山の最盛期には20万人もの人々が暮らしていましたが、文化コーナーでは、人々の暮らしや文化、信仰を紹介。
鉱物コーナーでは、石見銀山で採取された銀鉱石、銅鉱石などを展示しています。
大森の町は古地図など往時の史料と現在がほぼ同じという「絵図にあるものがそのまま実在する町」。
いも代官ミュージアム(石見銀山資料館)を訪れれば、江戸時代、鉱山に働いた人々の暮らしぶりをイメージすることができるのです。
大森代官所跡(国の史跡)には、門番詰所や仮牢などに使用されていた文化12年(1815年)築の門長屋が現存し、枯山水庭園は、代官所時代からの庭園。
世界文化遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産になっています。
庭には、一揆などが起こった場合の代官の逃げ道と伝えられる「抜け穴」が2ヶ所も設けられていることにも注目を。
ひとつは隣の城上神社に、もうひとつは裏手の勝源寺に通じているのだとか。
いも代官ミュージアム(石見銀山資料館)は、戦前に大森町水上村組合立青年学校、戦後は大森町立青年学校、大森町立新制大森中学校となり、さらに昭和28年から私立大森保育園として使われてきました。
老朽化によって解体される予定だったものを、地元有志(大森観光開発協会)が大田市から譲渡を受け、昭和51年に開館した、民間の熱意にあふれるミュージアム。
石見銀山では最初に生まれた博物館で、開館にあたっては資料の寄贈や調査の依頼が多く、石見銀山の史料が散逸するのを防ぐ役割をも果たしてきました(ミュージアムショップで資料集などを販売しています)。
ちなみに、「いも代官」は、 享保16年(1731年)に大森の代官になった井戸正朋(いど まさあきら/井戸平左衛門)の異称。
享保の大飢饉の際、領民の救済で、地域にサツマイモを奨励し、その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになったことから石見では「いも代官」、「いも殿様」と称されています。
いも代官ミュージアム(石見銀山資料館) | |
名称 | いも代官ミュージアム(石見銀山資料館)/いもだいかんみゅーじあむ(いわみぎんざんしりょうかん) |
所在地 | 島根県大田市大森町ハ51-1 |
関連HP | いも代官ミュージアム(石見銀山資料館)公式ホームページ |
電車・バスで | JR大田市駅から石見交通バス川本線(世界遺産センター行き・大森行き)で26分、大森代官所跡下車 |
ドライブで | 山陰自動車道(仁摩温泉津道路)仁摩・石見銀山ICから約7.8kmで世界遺産センター |
駐車場 | 交通規制のため世界遺産センター駐車場(石見銀山駐車場400台/無料)を利用し、路線バスで大森バス停へ |
問い合わせ | いも代官ミュージアム(石見銀山資料館)TEL:0854-89-0846/FAX:0854-89-0159 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag