豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点とするために肥前国松浦郡名護屋(現・佐賀県唐津市)に築城の達人といわれた加藤清正などの諸将に築かせた城が名護屋城(なごやじょう)。松浦党・波多親(はたちかし)の家臣、名護屋経述(なごやつねのぶ=広沢局の兄)の居城(肥前垣添城)を大改造したもの。日本100名城に選定。
豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として築城
名護屋という名前が、秀吉の出身である那古野(現・名古屋)と同名、そして勝男山という縁起の良い地名ということもあり、この地を選んだといわれています。
築城に際し、縄張りを黒田孝高(黒田官兵衛)、そして普請奉行を黒田長政(黒田孝高の子)、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが担っています。
文禄・慶長の役を見据えて、天正19年(1591年)の後半から築城が始まり、突貫工事の末、わずか数ヶ月で完成。
天然の良港である名護屋の港を控え、当時としては大坂城に次ぐ規模の城郭を誇っていました。
金箔を施した豪華な五重の天守、茶室を併設した秀吉と淀の生活空間だった「山里丸」など、戦時とはいえ、秀吉が天下人たることを世に示す構造となっていたのです。
周囲に諸将が構える118ヶ所の陣屋、最大時には30万人の軍勢が集結し、そしてそれらを支える人口10万人を超える城下町が築かれていました。
常陸国佐竹義宣の家臣・平塚滝俊の文禄元年五月朔日付の国元への書状には、「御城の石垣なとも、京都にもまし申候由、石をみなわ(割)りてつき(築き)あけ申候、てんしゅ(天守)なともじゅらく(聚楽)のにもまし申候」と記されています。
諸大名の軍勢はこの城に約7年間、秀吉自身も側室の淀、松の丸(京極竜子=京極高次の妹)を伴って1年数ヶ月間滞在しています(淀は懐妊により戻り、伏見城で秀頼を出産)。
名護屋城は前線基地だったにもかかわらず、秀吉は着任早々に広沢局(肥前垣添城主・名護屋経勝の娘)を側室に迎えています。
大坂城に次ぐ戦国時代の巨城は、石垣の一部のみが現存
慶長3年8月18日(1598年9月18日)、豊臣秀吉の死により朝鮮に遠征した大軍は退却し、名護屋城も廃城となっています。
この地を領有した寺沢広高は、名護屋城の廃材を唐津城に転用しています。
その後、江戸時代に起こった島原の乱の影響で、一揆軍の立てこもりを恐れて、石垣の多くが破却されています。
往時には、本丸、二の丸、三の丸、山里丸などを配し、本丸北西隅に望楼型5重7階の天守がそびえていました。
名護屋城を出発した諸将の部隊は壱岐、対馬を経て朝鮮半島に上陸しています。
20万以上の兵が名護屋城から朝鮮に渡り、名護屋城にも10万の兵が常駐していました。
現在は往時の石垣が残るだけですが、天守跡、三の丸南東隅櫓台、井戸などの整備が進んでいます。
周辺には、徳川家康、伊達政宗、毛利秀頼、黒田長政、加藤清正などが陣を敷いた跡も残されており、城跡の散策が可能。
118ヶ所あった陣屋のうち、現在、65ヶ所の遺構が残され、うち23ヶ所が国の特別史跡になっています(国の特別史跡=生駒親正、上杉景勝、片桐且元、加藤清正、加藤嘉明、木下利房、木下延俊、木村重隆、九鬼嘉隆、黒田長政、小西行長、島津義弘、伊達政宗、徳川家康、豊臣秀保、鍋島直茂、長谷川秀一、福島正則、古田織部、堀秀治、前田利家、毛利秀頼の陣跡と徳川家康別陣跡)。
上山里丸跡にある広沢寺は側室・広沢局が秀吉の菩提を弔って創建。
広沢寺境内の大ソテツ(国の天然記念物)は加藤清正が朝鮮から持ち帰り、秀吉に献上し、秀吉が手植えしたと伝えられるもの。
黒澤明監督の映画『乱』(昭和60年公開)のロケ地にもなっています。
また、佐賀県立名護屋城博物館が隣接し、名護屋城に関する歴史などを詳しく解説しています。
名護屋城 | |
名称 | 名護屋城/なごやじょう |
所在地 | 佐賀県唐津市鎮西町名護屋 |
関連HP | 肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会公式ホームページ |
電車・バスで | JR唐津駅大手口バスセンターから昭和バス波戸岬行きで40分、名護屋城博物館入口下車、徒歩5分。またはタクシーで30分 |
ドライブで | 九州自動車道福岡ICから約75km |
駐車場 | 名護屋城跡大手門駐車場(60台/無料) |
問い合わせ | 名護屋城跡観光案内所 TEL:0955-82-5774 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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