小梳神社

小梳神社

静岡県静岡市葵区紺屋町、静岡駅に近い呉服町通り沿いに建つ徳川家康ゆかりの社が、小梳神社(おぐしじんじゃ)。今川家の人質となった竹千代(徳川家康の幼名)が今川義元に対面する前にこの神社に立ち寄り、武運長久を祈願したと伝えられています。

徳川家康ゆかりの社は、駿府の祇園信仰を今に伝える

小梳神社
出世弁財天ともいわれる境内社の宗像神社(むなかたじんじゃ)

大宝律令で駿府の近くには古代東海道の横田駅(現在の葵区横田町界隈)が設けられましたが、小梳神社はその守護神として信仰され、平安時代編纂の『延喜式神名帳』にも小梳神社として記載されています。
祇園信仰(祇園精舎の守護神・牛頭天王に対する神仏習合の信仰)の広まりとともに「少将井宮」(しょうしょういのみや)と呼ばれるように(少将井は祇園の古いお旅所)。
家康が人質生活を送った今川家の治世下では、京の公家文化が導入され、「少将さん」と呼ぶ祇園信仰が隆盛していたのです(祇園信仰の中心、京の祇園社は、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈で八坂神社に)。
小梳神社の祭神も、祇園信仰の名残で、須佐之男命(すさのおのみこと) と奇稲田姫命・櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)。

当初は、現在の駿府城内にあって(小梳の地に駿府城が築城)、駿府城の守護神としても祀られていました。
当初の鎮座地は、現在の「静岡市歴史博物館」南側と推測されています。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家の守り神と伝わる大巳貴命、天照大神の2神を小梳神社に合祀し、少将井五所大神宮とし、藩政時代には徳川家の庇護を受けて繁栄しました。
慶長12年(1607年)、大御所として駿府住まいを決めた徳川家康の駿府城三の丸の拡張により、寛永8年(1631年)、新谷町に仮宮を造って奉遷し、さらに延宝3年(1675年)、現社地に社殿を造営して遷宮しています。
社殿造営には、駿府城代・松平氏を始め町奉行・大久保甚兵衛(おおくぼじんべえ)、城番、番頭、一加番(加番=城番を補佐する駿府城の警備の役職)、二加番、三加番、目付などが参加し、まさに天領・駿府をあげての駿府普請(すんぷふしん)といえるものでした。

往時の社殿は、明治9年、明治25年、昭和15年の大火で焼失し、現存する社殿はその後の再建です。

人質時代の家康(竹千代)は、祖母の於大の方と駿府城下で暮らしていましたが、今川時代の城下町は武田信玄の駿府侵入で焼き払われ、どこだったのかは定かではありません(今川義元の邸宅すら特定されていません)。
そんななかにあって、小梳神社は、家康人質時代(竹千代時代)には駿府城内に鎮座したため、境内で遊んだとも伝えられています。
家康が竹千代と称した頃には病弱だったと伝えられ、武運長久を祈願したといわれていますが、実際には、京文化を尊んだ当時の今川家の風潮を背景に、疫病を防ぐ(祇園信仰)という意味合いもあったのかもしれません。

小梳神社
名称 小梳神社/おぐしじんじゃ
所在地 静岡県静岡市葵区紺屋町7-13
関連HP するが企画観光局公式ホームページ
電車・バスで JR静岡駅から徒歩5分
ドライブで 東名高速道路静岡ICから約4km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 小梳神社 TEL:054-252-6660
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
家康像

【知られざるニッポン】vol.59 家康が隠居所に駿府(静岡市)を選んだ理由とは!?

慶長10年(1605年)4月16日、徳川家康は、将軍職を我が子・秀忠に譲り、駿府を隠居所に決めて、「大御所政治」を行ないます。慶長12年(1607年)から元和2年(1616年)の間、実質的に駿府城(現・静岡県静岡市)が日本の政治の中心として

 

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