東京都千代田区丸の内1丁目、大正3年に東京停車場(中央停車場)として完成したレンガ造りの駅舎で、国の重要文化財に指定されるのが、東京駅丸ノ内本屋(とうきょうえきまるのうちほんや)。設計は日本における近代建築の体制を確立したことで名高い建築家、辰野金吾です。
東京の中央停車場として大正3年12月14日に竣工
皇居から東へ一直線に延びる行幸通りの正面に位置する、ルネッサンス様式の重厚な建物。
明治41年3月25日着工、大正3年12月14日に竣工で、中央棟の南北に両翼を長く延ばし、南北は335mという長大なレンガ建築です。
当時、神戸まで全通した東海道本線の始発駅の新橋駅と、北の玄関口である日本鉄道・上野駅を結ぶ中央停車場として開業。
日本の鉄道網の起点(東京駅発が下り電車)となる停車場の中心施設であるとともに、明治時代の市区改正計画に基づき建設された首都東京を象徴する貴重な建築物で、皇居・和田倉門へ直通する道路(行幸通り=東京都道404号皇居前東京停車場線)は、関東大震災後の震災復興再開発事業により、大正15年に完成。
東京の銀座レンガ街は、関東大震災で倒壊していますが、東京駅丸ノ内本屋は被害を受けたものの倒壊を免れています。
昭和20年5月25日の東京大空襲で華麗なドームや屋根、内装を焼失していますが、昭和23年、基本的な設計を踏襲しながらも3階建てから一部2階建てに、ドーム型の南北の屋根は八角形にして再建。
年間の利用を視野に入れた応急工事でしたが、そのまま継続して使い続けました、その後の保存復原運動が結実し、平成18年から「東京駅丸の内駅舎保存・復原工事」を開始(平成15年には国の重要文化財に指定されています)。
「駅舎の安全性と利便性の向上を図りながら、駅舎の恒久的な活用を実現するとともに、文化的遺産である歴史的建造物を未来に継承し、首都東京の風格ある都市空間の形成に貢献する」(JR東日本の計画概要)という一大プロジェクトでした(鹿島建設が工事を担当)。
焼失した南北の3階部分を創建時のドーム形状に戻し、地下1階・2階を新設して、駐車場・機械室などを整備、平成24年10月、地下2階、地上3階(一部4階)建ての免震構造を備えた駅舎が完成しています。
南北のドーム部分には創建時の装飾や漆喰、銅板葺なども保存・復原され、駅舎内には、バーやレストラン、客室などに、西洋のクラシックな雰囲気が漂う「東京ステーションホテル」もリニューアルオープン。
夜は赤レンガの壁面を照らす、LED照明によるライトアップも見事です。
「東京ステーションホテル」ではロビーラウンジ、バー&カフェ「カメリア」、バー「オーク」、レストラン「ブラン ルージュ」などがあり、外来での利用も可能。
使われたレンガのうち9割は深谷の日本煉瓦製造産
銀座レンガ街を立案・主導した外務大臣・井上馨は、伊藤博文首相に帝都・東京の大改造を託されていました。
そのひとつが、中央停車場(中央ステーション)の建設で、明治24年の濃尾地震の反省を活かし、耐震性を増した三菱一号館などのレンガ建築が完成します。
東京駅には927万個という膨大なレンガが使われていますが、内訳は深谷の日本煉瓦製造(平成18年に解散)が833万個、品川白煉瓦(現・品川リフラクトリーズ)が94万個で、ともに渋沢栄一が関わった企業です。
日本煉瓦製造は、明治28年、深谷駅から工場までの専用線を敷設、東京駅まで貨物列車でレンガを輸送できたのです。
こうした「丸の内をレンガ色に」という井上馨の帝都・東京の大改造計画に応えたのが、建築家・辰野金吾。
英国のヴィクトリア様式による露出した赤レンガに白い花崗を配した西洋建築は、「辰野式フリー・クラシック」と称され、辰野金吾の建築作品の集大成ともいえる芸術的な作品です。
「辰野式フリー・クラシック」は、明治39年に竣工した日本銀行京都支店(現・京都文化博物館)が第1号で、辰野金吾は、明治30年代後半から大正半ばまで、この手法で建築物を百数十件も建てています。
東京駅丸ノ内本屋 | |
名称 | 東京駅丸ノ内本屋/とうきょうえきまるのうちほんや |
所在地 | 東京都千代田区丸の内1丁目 |
関連HP | JR東日本公式ホームページ |
電車・バスで | JR東京駅からすぐ |
ドライブで | 首都高速霞が関ランプから約2.4km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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