東京都台東区浅草1丁目・2丁目、浅草寺の西側一帯は大正から昭和にかけて東京の娯楽の中心地だった地。浅草オペラや軽演劇もここから生まれ、エノケンこと榎本健一から萩本欽一、ビートたけしなど多くの芸能人を輩出。現在も六区ブロードウェイ商店街振興組合がその伝統を受け継いでいます。
多くの芸人、映画スターを生みだした街
漫才協会、一東京演芸協会、ボーイズ・バラエティー協会などを中心とする「いろもの寄席」(漫才、漫談、コント、マジック、曲芸、ものまね、紙切りなど)を連日開催する「浅草フランス座演芸場東洋館」、落語を中心に、漫才、手品などの色物芸を楽しむことができる「浅草演芸ホール」、大衆演劇のメッカ「木馬館大衆劇場」、ストリップ劇場「浅草ロック座」が建ち並ぶのが六区ブロードウェイ。
一時期衰退し、映画館などは他の施設に変わっていますが、最近お笑いブームで六区ブロードウェイとして再注目されるエリア。
落語や漫才が楽しめる下町の笑いの殿堂「浅草演芸ホール」では、実力派の噺家からナイツなどテレビでお馴染みの漫才師まで、間近で見ることができます。
「木馬館大衆劇場」は、北区十条の「篠原演芸場」と並ぶ東京の大衆演劇の二大劇場。
日本文化大衆演劇協会に加盟する劇団の公演を見ることができます。
ビートたけし(北野武)も浅草フランス座が出発点。
明治大学に通う北野武が、チケット売り場のおばちゃんに「コメディアンになりたいんだけど」と声をかけたのがきっかけで、浅草フランス座のエレベーターボーイに。
師匠となる脚本家・深見千三郎(ふかみせんざぶろう=長門勇、東八郎、萩本欽一、ツービートらの「伝説の師匠」)に出会ったのもエレベーターボーイ時代で、何もできなかったからまずはタップダンスを覚えたというエピソードは有名です。
台東区立浅草公会堂にはスターの広場があり、歌手森進一や俳優田中邦衛など多くの著名人の手形が並んでいます。
明治23年11月11日には浅草六区に日本初の高層展望塔である高さ52mの凌雲閣(浅草十二階=日本初の電動式エレベーターを設置)も建ち、一帯は日本最初の遊園地である「浅草花屋敷」(現・浅草花やしき)、活動写真の「電気館」(日本初の常設映画館/昭和51年2月29日閉館)を中心に浅草六区興行街として発展。
凌雲閣は、関東大震災で倒壊し、現在、「浅草花やしき」近くの凌雲閣跡地は「オーケー 浅草店」になっています。
店頭に「凌雲閣記念碑」が立ち、ここに浅草のシンボルがあったことがわかります。
浅草六区のど真ん中、浅草六区の花形映画館のひとつ「大勝館」(明治41年創業、昭和46年閉館)の跡地に建つ「ドン・キホーテ 浅草店」は、往時の「大勝館」のイメージを活かしながら新築した建物。
新しい六区ブロードウェイのシンボル的な存在になりつつあります。
浅草六区、その名の由来は!?
明治維新の神仏分離、廃仏毀釈を受け、明治6年、上野・寛永寺、芝・増上寺、深川・富岡八幡、王子・飛鳥山(王子権現)の境内地とともに、日本初の都市公園として指定されたのが、浅草寺境内。
明治17年、浅草寺境内地だった浅草公園の敷地は7区画に分けられ、浅草一区~浅草七区が誕生しました。
浅草寺本堂周辺の一区を中心に、南側の仲見世が二区は、浅草寺本堂と伝法院が三区は、林泉池が四区、奥山と呼ばれた「浅草花屋敷」周辺が五区、そして興行地が六区で、七区は浅草馬道界隈で、後に公園指定を外されています。
六区は、当初、奥山地区にあった見世物小屋、芝居小屋が移転しましたが、その後活動写真(映画館)、本格的な劇場へと発展し、日本の芸能文化の中心地になったのです。
大正時代には、作曲家の佐々紅華や興行師の根岸吉之助、ダンサーの高木徳子らが中心となった「浅草オペラ」も隆盛しますが、関東大震災の影響で消滅し、ムーランルージュ新宿座がその伝統を継承しました。
六区ブロードウェイ(浅草六区通り) | |
名称 | 六区ブロードウェイ(浅草六区通り)/ろっくぶろーどうぇい(あさくさろっくどおり) |
所在地 | 東京都台東区浅草1丁目・2丁目 |
関連HP | 六区ブロードウェイ商店街振興組合公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ・都営地下鉄・東武鉄道浅草駅から徒歩10分。つくばエキスプレス浅草駅からすぐ |
ドライブで | 首都高速駒形ランプから650m、または、上野ランプから約2.2km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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