江戸の入口には東海道沿いの鈴ヶ森刑場(現・東京都品川区南大井)と日光街道沿いの小塚原刑場(荒川区南千住2丁目)、八王子・浅川河原(八王子市大和田町)の大和田刑場と3ヶ所の処刑場がありましたが、慶安4年(1651年)に東海道沿いに設置された刑場が鈴ヶ森刑場。第一京浜(国道15号)の傍らに刑場跡が残されています。
八百屋お七や天一坊がここで処刑された!
高輪大木戸から慶安4年(1651年)に鈴ヶ森に移され、明治3年に閉鎖されるまで10万人とも20万人ともいわれる罪人が処刑されたといわれていますが、実数は定かでありません。
東海道沿いに設置されているのは、見せしめによる犯罪抑止効果を狙ってのこと。
往時の刑場の大きさは、間口40間(72m)、奥行き9間(16.2m)の大きさ。
最初の処刑者は、慶安4年(1651年)に勃発した由比正雪の乱(慶安の変=江戸幕府の転覆を図った事件)の首謀者のひとり丸橋忠弥(まるばしちゅうや)の磔刑とされ、 慶安4年8月10日(1651年9月24日)のこと。
その後、井原西鶴の『好色五人女』などに脚色されて取り上げられる八百屋お七、辻斬りで130人も斬殺した白井権八、「美貌の悪女」として有名な白子屋お熊、徳川吉宗の落胤(らくいん)と称して浪人を集めた天一坊事件の主人公・天一坊など、今に名を残す多くの罪人が処刑されています。
最後の処刑は有栖川宮熾仁親王を狙い、池上本門寺前の霊山橋(りょうぜんばし)で斬首にされ、首だけ鈴ヶ森刑場にさらされた彰義隊士・渡辺健蔵で明治元年のこと。
人の死骸に群がる野犬などが集まり、その陰惨な光景からこの場所を嫌う人は、青物横丁で池上道(平間街道)に出て、南品川から高輪に出る道を選びました。
井戸、火炙(ひあぶり)用の鉄柱、磔(はりつけ)用の木柱を立てた礎石などが残され、東京都の史跡となっています(ただし礎石の位置は移動しています)。
鈴ヶ森刑場で処刑された人は、投込寺と称される品川宿はずれの海蔵寺に埋葬されたと伝えられています。
現在と往時でもっとも異なるのは、処刑場だった時代には、海が迫っていたこと。
品川沖では名産の海苔がつくられ、海の中には木の枝(海苔のヒビ)が林立していました。
鈴ヶ森刑場 | |
名称 | 鈴ヶ森刑場/すずがもりけいじょう |
所在地 | 東京都品川区南大井2-7-3 |
関連HP | 品川区公式ホームページ |
電車・バスで | 京浜急行大森海岸駅から徒歩5分 |
ドライブで | 首都高速1号羽田線鈴ヶ森ICからすぐ |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 品川区庶務課文化財係 TEL:03-5742-6839/FAX:03-5742-6890 |
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