野口英世像

野口英世像

東京都台東区上野公園、上野恩賜公園の国立科学博物館近くに立つのが、野口英世像(のぐちひでよぞう)。医学者らしく右手に試験管を持つ立像は、昭和22年、福島県出身の玉応不三雄(玉應不三雄.・たまおふみお)が造立運動を開始したもので、上野恩賜公園に立つ野口英世像を知る人は多くありません。

上野恩賜公園に野口英世像が!

野口英世像

福島県安達郡大玉村出身の玉応不三雄は、猪苗代湖畔の野口英世記念館を訪れた際、息子を思う母の手紙に心を動かされ、野口英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年から銅像建立の募金集めを開始しますが、戦後の貧困を背景に、思うように資金も集まらず、道半ばにして病に倒れてしまいます。
玉応不三雄の死後、日本医師会、北里研究所、野口英世記念会などがその遺志き継ぎ、昭和26年に、像が設置されています。
当初は、皇居前や日比谷公園への設置を希望していましたが、それが叶わず、上野恩賜公園になったのだとか。
これは造立の前年、戦後文部次官を務め、昭和23年に東京都教育委員に就任していた山崎匡輔(やまざききょうすけ)が建設委員長に就任し、その斡旋があったから。

制作は多摩美術短期大学教授で彫刻家の吉田三郎(よしださぶろう)で、石台を含めて高さ4.5m。
台石にはラテン語で「PRO BORN HUMANI GENERIS」(人類の幸福のために)と刻まれています。

野口英世は、明治9年11月9日、福島県耶麻郡三ッ和村(現・耶麻郡猪苗代町)に生誕。
1歳の時に囲炉裏(いろり)に落ち、左手に火傷を負って不自由になりますが、明治25年、会津若松で会陽医院を開いていたアメリカ帰り(カリフォルニア大学医学部で学び、サンフランシスコで開業)の医師・渡部鼎(わたなべかなえ)の手術を受けます。
高等小学校の生徒だった野口英世は、その手術をしてくれた医者に感銘を受け、医学の道を目指し、会陽医院の書生となって働きながら医学の基礎を熱心に学び、21歳で医師免許を取得。

渡米し、ロックフェラー医学研究所に勤務する明治44年、梅毒スピロヘータの純粋培養の成功を発表。
その後も梅毒と痴呆性麻痺の関係、小児麻痺、狂犬病の病原体特定などで研究成果を上げ、大正7年、黄熱病が蔓延するエクアドルへ派遣され、その病原体の特定に成功。
野口ワクチンを開発して黄熱病を鎮めています。
アフリカでは野口ワクチンが効かないといわれたことから、自らガーナでアカゲザルを使って研究を行ないますが、自身が黄熱病に罹患し、昭和3年5月21日に没。

野口英世像
名称 野口英世像/のぐちひでよぞう
所在地 東京都台東区上野公園8
関連HP 台東区公式ホームページ
電車・バスで JR上野駅から徒歩5分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
上野恩賜公園

上野恩賜公園

総面積は53haにわたる広大な上野恩賜公園。江戸時代までは徳川家の菩提寺、東叡山寛永寺の境内で、多くの堂塔、そして塔頭が建ち並んでいた境内でした。不忍池に弁天堂や、上野動物園の中に五重塔があるのもそのため。明治6年に日本初の都市公園に指定。

 

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