織田信長の中国攻めで、頑強に抵抗したのが鳥取城(現・鳥取県鳥取市)を守備し、毛利輝元に臣従する山名氏。羽柴秀吉は二度にわたり鳥取城を攻撃していますが、1回目は降伏して無血開城。2回目の籠城戦は、「鳥取の飢え殺し」と称される戦国時代最悪の兵糧攻めが行なわれています。
まずは補給路を断つという用意周到な戦略
羽柴秀吉の鳥取城攻略戦は二度。
初回は、天正8年(1580年)で、3ヶ月の籠城戦の後、城主・山名豊国(やまなとよくに)が単身で秀吉を訪れて和睦、織田信長への臣従を誓っています。
鳥取城は、毛利氏の最前線でもあり、和睦直後、秀吉軍が姫路に兵を戻すとすかさず毛利氏は山名豊国に臣従を迫り、再び毛利輝元の配下となります。
毛利氏家臣の吉川経家(きっかわつねいえ)が城主となり、山名豊国は因幡国守護として城に入るかたちに。
山名豊国は、織田信長へ密書を送りますが、市場城主・毛利豊元の家臣達に見つかって発覚。
羽柴秀吉のもとに出奔しますが、山名氏の家臣はそれに従わず、毛利氏に臣従し、鳥取城に籠城します。
このとき、秀吉はすでに播磨三木城(兵庫県三木市)の攻略戦(三木合戦)で徹底した兵糧攻めを行ない勝利を収めていたことから、その成功体験を鳥取城攻めにも活かすことにしたのです。
それが、天正9年(1581年)7月〜10月に行なわれた第二次因幡攻め。
対する吉川経家は、11月になれば新雪で秀吉軍も撤退するだろうから、それまで持ちこたえればと、早々と籠城戦を決めていました。
ところが、事態は悪化します。
その年が凶作にだったことに加え、吉川経家は、秀吉の用意周到さを見抜いていませんでした。
『陰徳太平記』によれば、前年に侵攻した際に、すでに因幡国へと運ばれる米を買い占めるという用意周到さ(わざわざ若狭の商船を因幡に送り込んでいます)だったのです。
吉川経家もこのことに気づき、吉川元春に食料の調達を依頼しますが、想定するよりも早く、秀吉軍が陣を構えます。
鳥取城には兵が20日間籠もるだけの食料が蓄えられていたともいわれますが、秀吉軍は城周辺の農民を城内へと追い立てるという戦法で、城に籠もる人数をも増やしているのです(兵士、農民ら1000人以上が籠城)。
開城後、秀吉の配った粥で命を落とす人が続出!
羽柴秀吉は、鳥取城の建つ久松山(263m)を眼前にする山上(251m)に陣を構えます。
これが現在本陣山・太閤ヶ平(たいこうがなる)と称される場所で、ここに陣取って籠城戦を見守ったのです。
すでに補給路は完全に遮断され、まさに高みの見物だったことでしょう。
山麓に陣を構えなかったのは決死の奇襲攻撃に備えたからだと推測できます。
食糧難の鳥取城では当然、餓死者が続出。
「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」(『信長公記』)という悲惨な状況でした。
3ヶ月以上の籠城戦の結果、城主の吉川経家が切腹することで、将兵の命を救うという条件で開城となったのです。
開城後に、羽柴秀吉は、籠城を生き延び、やせ細った人々に粥(かゆ)を振る舞います。
ところが、この粥を食べた人の半数以上が命を落とすという事態が発生。
秀吉に仕えた武将・竹中重門が著した『豊鑑』には、少量食べた人は気分が悪くなる程度で済み、大量に食した人が命を落と記されています。
こうした史書の記述などから、飢餓状態での急激な栄養摂取が原因で電解質異常などの重い合併症を引き起こすリフィーディング症候群だったのではないかといわれています(鳥取県立博物館が令和5年に調査結果を発表)。
戦国時代最悪の兵糧攻め「鳥取の飢え殺し」とは!? | |
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