幕末の慶応元年(1865年)、幕府の勘定奉行・小栗忠順の進言で、フランス人技師・ヴェルニーを招いて横須賀に開設した横須賀製鉄所(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)。明治新政府の富国強兵政策の一環で、横須賀に海軍の鎮守府が置かれ、観音崎が陸軍の要塞に。そのため、突貫工事で開通したのが横須賀線です。
清国軍の上陸を想定し、線路を敷設
東京湾の防備を念頭に明治13年、観音崎に砲台(観音崎第一砲台・第二砲台)を築き、その後、観音崎や猿島を東京湾要塞の一部にした陸軍。
明治13年といえば、台湾出兵を行ない、清国(大清帝国=中国)と緊張関係を強めた年です。
そして明治17年には、海軍が横須賀鎮守府(日本海軍の根拠地で、横須賀のほか、呉、佐世保、舞鶴に設置)。
横須賀まで鉄道が敷設する以前は、横浜から船で人員や物資を運んでいましたが(横浜〜横須賀間の海岸沿いは馬車を走らせることも困難な場所がありました)、これでは戦時対応などに支障をきたすため、明治19年6月、陸海軍は鉄道敷設の必要を説いた建議書を海軍大臣・西郷従道(さいごうつぐみち)、陸軍大臣・大山巌(おおやまいわお)の連名で総理大臣・伊藤博文(いとうひろぶみ)に提出。
鉄道省は明治20年に測量を開始、明治21年着工、明治22年6月16日開通という突貫工事を行なっています。
そのため、北鎌倉の円覚寺では総門前の前庭・白鷺池(びゃくろち)と総門の間を線路が横切り、鎌倉では建長寺参道の段葛(だんかずら)を分断しています。
鉄道敷設の資金は、なんと東海道線敷設の資金の一部を流用。
なぜ、こんなに突貫工事が求められたのでしょう?
当時の国際情勢を紐解くと、日本の仮想敵国は清国(大清帝国=中国)でした。
明治14年には清朝の建て直しに尽力した李鴻章(りこうしょう/リーホンチャン)率いる北洋水師(北洋艦隊)が誕生し、主力艦「定遠」、「鎮遠」をドイツに発注しています。
陸軍は、横須賀の占領・制圧を目的に、清国軍は、まずは観音崎の南西に位置する長井湾に上陸することを想定していました。
清国軍の上陸・進撃を阻止するためにも、三浦半島先端、西岸部への帝国陸軍の迅速な展開が必要になるため、横須賀、観音崎、あるいは久里浜へと通じる鉄道の敷設が急がれたのです。
つまりは、横須賀線は、清国軍の長井湾上陸を想定して敷設したということに。
日清戦争は開通5年後の明治27年7月25日に開戦しています。
横須賀線開通で逗子・葉山が保養地に
陸軍大臣、海軍大臣の要請を受け、明治20年3月10日の閣議で検討され、早くも4月22日に測量が始まっています。
現在の京浜急行のルートではなく、大船で分岐し、鎌倉、逗子を抜ける鉄路としたことは、『日本鉄道史』によれば、工費が最も少なく、しかも直線に近いものだったから。
陸軍の要塞のある観音崎への延伸は、横須賀の市街地を通ることから、工費が膨らむことを理由に断念しています。
横須賀駅も市街地につくることを断念し、「水兵営の東南端に止め候ても、船渠の用品及軍港の需要品を運搬するに充分と存候に付」(鉄道局長官井上勝から海軍大臣西郷従道と陸軍大臣大山巌へ照会した文書/明治20年11月24日付)海軍提供の用地に建設されています。
「地勢凸凹甚だしく燧道の開削8箇所にしてその延長合計1623mに及ぶ、明治21年1月工事を起し新橋建築課長の下に六等技師大屋権平を担任させて翌22年6月に至り竣功」(『日本鉄道史』)。
こうして突貫工事で完成した横須賀線ですが、当初開設した駅は鎌倉、逗子の2駅。
これにより、ベルツ博士が保養に向くと皇室などに勧めた三浦半島西海岸、とくに葉山には明治27年、葉山御用邸が設けられ、以降、逗子・葉山に有名人の別荘が次々と建てられていきます。
明治31年〜明治32年に国民新聞に連載した徳冨蘆花の小説『不如帰』(ふじょき、ほととぎす)は、日清戦争の直前に、徳冨蘆花が逗子で保養中に聞いた話をモチーフにした明治のベストセラー小説です。
横須賀線が敷設されたことが、逗子・葉山の保養地化への第一歩となり、さらに戦後は「太陽族」という言葉まで生み出す別荘地、高級住宅地へと発展したのです。
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