3世紀の倭(日本)の女王の都が置かれた邪馬台国を探る手がかりとなる『魏志倭人伝』。その記述から朝鮮半島南部から対馬、壱岐を経て、北九州に至る行程がわかっていますが、九州で最初の訪問国となったのは、末廬國(まつらこく)。現在の佐賀県唐津市だと推測されています。
一支國(壱岐)から海を渡って九州に上陸
『魏志倭人伝』では朝鮮半島から海を渡って邪馬台国を目指しています。
魏の使者はまず対馬、そして壱岐へと渡り、壱岐から九州本土を目指します。
「渡一海千餘里、至末盧國」
(海を渡って千余里いくと末盧國に至る)。
壱岐島から唐津市(唐津港)との距離は53kmほど。
千余里というのはいかにもオーバーな表現ですが、朝鮮半島南岸の狗邪韓国(くやかんこく)から対馬は「千餘里」、対馬から壱岐も「千餘里」なので、実際には長い航海だったという意味合いなのでしょう。
この末廬國は長崎県の松浦郡(まつらのこおり)と推測されています。
古代には末羅国(まつらのくに)とよばれていたので、末廬国=末羅国=松浦郡ということに。
では末廬國の王都(クニの中心)はどこにあったのでしょう。
注目されるのは、「日本の稲作発祥地」という佐賀県唐津市菜畑松円寺の菜畑遺跡。
古くから大陸との交流があった唐津ですが、その名も唐(中国)への津(港)に由来します。
ただし、唐津(辛津)という名は中世以降の名で、古代には末羅と称されていました。
末盧國の王都は唐津市にある千々賀遺跡か!?
末盧國の王都は同じ唐津市にある千々賀遺跡とする説が有力です。
弥生時代中期~古墳時代前期の竪穴住居跡、土器棺墓、土坑などが出土。
2~3世紀頃の拠点集落であることが明白で、ちょうど『魏志倭人伝』の記された時代と一致するからです。
さらに王墓は桜馬場遺跡(さくらのばばいせき=弥生時代中期〜後期の甕棺墓地)であることもわかってきました。
桜馬場遺跡からは、昭和19年の防空壕掘削に伴い甕棺(かめかん=北部九州を代表する墓制)が発見され、王権を象徴する中国後漢代の銅鏡2点、巴形銅器3点、有鉤銅釧26点などの副葬品が出土しています。
つまりは出土した銅鏡が『魏志倭人伝』の時代とピッタリと一致。
さらに松浦川河口の中原遺跡(なかばるいせき)は、弥生時代の甕棺から鉄戈・鉄矛が出土、弥生時代の中核的遺跡と判明しています。
唐津市久里にある久里双水古墳(くりそうずいこふん)は、全長108.5mという巨大な前方後円墳。
築造されたのは3世紀末〜4世紀頃(古墳時代前期前半)と国内最古級の前方後円墳、つまりは古墳時代初期の末盧國の王墓(首長墓)とも推測できます。
出土された副葬品(平縁盤龍鏡、碧玉製管玉、鉄製刀子)などから近畿(ヤマト王権)とは別の文化圏の古墳である可能性が高いこともわかり、『魏志倭人伝』時代のクニの王の後継者と推測できるのです。
話を整理すると、末盧國は弥生時代中期後半頃に成立し、王都(拠点となるムラ)は千々賀遺跡、王墓は桜馬場遺跡ということになります。
ではクニとしてはどんな様子だったのかといえば『魏志倭人伝』には
「有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之」
と記されています。
現代語に訳せば、
「4000余戸があり、山と海のぎりぎりに沿うように暮らしている。草木が盛んに茂り、歩いても前の人が見えないほど。魚やアワビを好んで捕り、水の深浅にかかわらず、皆、潜ってこれを取っている」
と、草がボウボウに繁茂し、漁業を生業としていることがわかります。
日本有数の好漁場という玄界灘の沿岸の立地を背景に、今も「素潜り漁師」がアワビをサザエ、アカウニを捕るために活躍していますが、少なくとも弥生時代から続く歴史ということになります。
『魏志倭人伝』の旅(3) 末廬國の王都へ! | |
所在地 | 佐賀県唐津市菜畑3355-1 |
場所 | 菜畑遺跡 |
電車・バスで | JR唐津駅から徒歩15分 |
ドライブで | 西九州自動車道(福岡前原道路)前原東ICから約28.4km |
駐車場 | 末盧館臨時駐車場(無料)を利用 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag