八町八反

八町八反

山口県萩市見島、見島の玄関、本村港(見島港)の北東にある律令時代の条里制の名残とも推測できる田が、八町八反(はっちょうはったん)。「千年の田んぼ」とも名付けられ、見島ジーコンボ古墳群に眠る国境警備の武人集団が自活のために開墾したという説があります。

見島ジーコンボ古墳群に眠る国境警備の武人集団が開墾?

短冊状に細長く、整然と地割りされていたのが特徴で、これは奈良・平安時代の条里制の跡とも推測できます。
八町八反をそのまま単純計算すれば、8.8haほどになりますが、実際には12haの広さがあり、小さな溜池が点在。

全国棚田連絡協議会機関紙『棚田ライステラス』編集長で、20年以上全国の農村を取材する石井里津子さんの著書『千年の田んぼー国境に島に、古代の謎を追いかけて』(旬報社)では、見島ジーコンボ古墳群に眠る武人集団が開いた田であると結論づけています。
残念ながら、史書などの裏付けがなく(地元の言い伝えでは江戸時代に開墾したことに)、今後の解明が待たれるところ。

見島ジーコンボ古墳群に眠る国境警備の武人集団は、東北を朝廷の勢力圏に置く際に、軍事活動の末、降服した蝦夷勢力を強制的に移住させ(全国35ヶ国に強制移住)、長門国俘囚集団として、新羅の侵攻を見据えて見島に駐在させたもの。
俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料(『延喜式』主税式諸国本稲条などに「俘囚料」が規定が記されています)という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除されていました。
離島という厳しい条件のため、自活のために田んぼを開墾したのかもしれません。

千葉県内の遺跡からは、俘囚集団が寺院建設、土器製造に関わったことが判明していますが、見島は、国境警備のため、普段は訓練に明け暮れながら、田畑を開墾して自活していた可能性も考えられるのです。

八町八反
名称 八町八反/はっちょうはったん
所在地 山口県萩市見島
電車・バスで 本村港から徒歩10分
問い合わせ 見島観光協会 TEL:0838-23-3311
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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