羽黒山(現在の出羽三山神社、江戸時代までは羽黒権現)の表参道は、随神門(旧仁王門)をくぐり五重塔脇の石段を上る道で、樹齢350年から500年の杉並木の中を上っていきます。全長1.7km、2446段の長い石段の道は、途中一の坂、二の坂、三の坂あたりが急坂になっており、この参道を登れば、二の坂茶店で踏破認定証がもらえる仕組み。
国の天然記念物になった参道の並木道
参道の杉木立は、400本以上に及び、国の天然記念物に指定されています。
山頂までは所要約50分。
参道の両側に聳える杉の巨木は、第50代別当で羽黒山中興の祖と呼ばれる天宥(宥誉)が在職中に植林したものと伝えられています。
天宥は、正保2年(1645年)に東照宮を羽黒山に勧請。
慶安元年(1648)に総計2446段という山上・十五童坂まで続く石段を築き始めます。
松尾芭蕉も『奥の細道』途中、元禄2年6月3日(1689年7月19日)夕刻、この参道を歩き、一の坂、二の坂を越えて、三の坂下の参道から南に分岐する細道を歩いて南谷の別院・玄陽院に向かっています(玄陽院で宿泊)。
芭蕉一行は、断食して潔斎し、6月5日、首に注連(しめなわ)を掛け羽黒権現に参拝しています。
「その玉や羽黒にかへす法の月」。
石段を築き、杉を植えた第50代別当・天宥(宥誉)
天宥(宥誉)は、寛永11年(1634年)、出羽三山の復興を願い、3代将軍・徳川家光に謁見。
寛永18年(1641年)、真言宗ながら大願成就を期して天台宗の天海大僧正(徳川3代に仕え、黒衣の宰相と呼ばれた僧)の弟子となり、師の一字を貰って名を宥誉から天宥に改めています。
山内に日光東照宮を勧請する、南谷に350両を費やして壮大な伽藍を造営など、天海大僧正の後ろ盾で、出羽三山の統一を進めました。
その最中、寛永20年(1643年)、天海がこの世を去り、湯殿山四ヶ寺(本道寺、大日寺、大日坊、注連寺)を天台宗へと改宗させることもできず、さらには羽黒山の智憲院や愛染院などと対立し、ついには幕府を巻き込む訴訟となり、ついに寛文8年(1668年)4月、伊豆七島・新島への島流しとなります。
天宥は、新島で7年を過ごし、延宝2年(1674年)10月に82歳の生涯を閉じています(東京都新島村新島本村に天宥別当墓所があります)。
芭蕉が羽黒山に滞在中、天宥の門徒であった人々が、天宥追悼の一句を芭蕉に嘆願し、『天宥法印追悼句文』を記しています(現存し「出羽三山歴史博物館」に所蔵)。
寛永18年(1641年)、真言宗ながら大願成就を期して天台宗の天海大僧正(徳川3代に仕え、黒衣の宰相と呼ばれた僧)の弟子となり、師の一字を貰って名を宥誉から天宥に改めています。
山内に日光東照宮を勧請する、南谷に350両を費やして壮大な伽藍を造営など、天海大僧正の後ろ盾で、出羽三山の統一を進めました。
その最中、寛永20年(1643年)、天海がこの世を去り、湯殿山四ヶ寺(本道寺、大日寺、大日坊、注連寺)を天台宗へと改宗させることもできず、さらには羽黒山の智憲院や愛染院などと対立し、ついには幕府を巻き込む訴訟となり、ついに寛文8年(1668年)4月、伊豆七島・新島への島流しとなります。
天宥は、新島で7年を過ごし、延宝2年(1674年)10月に82歳の生涯を閉じています(東京都新島村新島本村に天宥別当墓所があります)。
芭蕉が羽黒山に滞在中、天宥の門徒であった人々が、天宥追悼の一句を芭蕉に嘆願し、『天宥法印追悼句文』を記しています(現存し「出羽三山歴史博物館」に所蔵)。
羽黒山・表参道杉並木 | |
名称 | 羽黒山・表参道杉並木/はぐろさんおもてさんどうすぎなみき |
所在地 | 山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒33 |
関連HP | 出羽三山神社公式ホームページ |
電車・バスで | JR鶴岡駅から庄内交通バス羽黒山頂行きで40分、羽黒センター下車、徒歩5分 |
ドライブで | 山形自動車道鶴岡ICから約17.1km |
駐車場 | 50台/無料 |
問い合わせ | 出羽三山神社 TEL:0235-62-2355/FAX:0235-62-2352 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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