日本三大合戦とは、天下分け目の関ヶ原合戦、武田信玄と上杉謙信の川中島合戦、そして南北朝時代に九州で展開し、南朝方が勝利した筑後川合戦です。織田信長が明智光秀に討たれた後、羽柴秀吉と明智光秀の天王山合戦、鉄砲の活用で有名な長篠合戦、そして源平合戦などは含まれていません。
関ヶ原の合戦|岐阜県
徳川幕府を誕生させた「天下分け目の関ヶ原」

日時:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
場所:美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)
総大将:徳川家康(東宮)VS 毛利輝元(西軍)
西軍の実質的な総大将は石田三成ですが、形式的には毛利輝元でした
内容:徳川秀吉没後、五大老・五奉行体制で豊臣政権は維持されますが、内部対立が激化、前田利家没後に加藤清正らによる石田三成襲撃事件の勃発
家康への権力が集中しましたが、石田三成を中心にした反徳川が決起し、関ヶ原で激突
両軍総勢20万人のうち、鉄砲隊は2万人という近世的な合戦となりました
川中島の合戦|長野県
雌雄を決することなく5回も続いた合戦

日時:第4次川中島合戦=永禄4年9月10日(1561年10月28日)
合計5回の合戦が展開
場所:信濃国川中島(長野県長野市小島田町)
更級・埴科・高井・水内の4郡の境界で要衝でした
総大将:武田信玄(甲斐) VS 上杉謙信(越後)
内容:甲斐(武田信玄)・相模(北条氏康)・駿河(今川義元)の政略結婚による「三国同盟」の進展で、信濃の平定を目ざす信玄は本格的に信濃への侵攻を開始
信濃葛尾城の城主・村上義清(むらかみよしきよ)は、越後の長尾景虎(上杉謙信)に助けを求め、天文22年(1553年)に川中島で第1回の衝突が勃発
川中島の合戦(川中島の戦い)として有名なのは、永禄4年(1561年)の4回目です
筑後川の合戦|福岡県
南朝方が勝利し、九州を11年にわたって支配するきっかけに

日時:正平14年・延文4年8月6日(1359年8月29日)
南北朝時代の合戦です
場所:筑後国御井郡宮ノ陣(福岡県久留米市宮ノ陣)、御原郡大保原(小郡市大保原)など筑後川一帯
総大将:懐良親王(かねよししんのう/南朝・征西将軍府)VS 少弐頼尚(しょうによりひさ/北朝)
征西大将軍・懐良親王は8歳なので、形式的な総大将です
内容:鎌倉時代の元寇で御家人の多くの犠牲を生んだ北九州ですが、その80年後に南朝・北朝合計て戦死傷者4万6000人という元寇を上回る被害を生んだ熾烈な合戦
南朝方4万、北朝方6万、あわせて10万という大軍で、南朝方は北朝の拠点・太宰府に対抗するため、筑紫平野と大宰府を一望できる高良山、後に宮ノ陣に拠点を置いています(懐良親王は都を出立し、様々な妨害にあって4年後、薩摩に上陸、筑後へと進軍しています)
南朝方が勝利をおさめ、11年間、九州は南朝が支配しています
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