長篠城(ながしのじょう)は、今川氏親の家臣、菅沼元成が1508(永正5)年に築いた城。1575(天正3)年の長篠の戦いで、時の城主・奥平貞昌(おくだいらさだまさ=奥平信昌)がわずか500の兵で籠城し、1万5000という大軍を擁した武田勝頼の猛攻を凌ぎ、織田・徳川連合軍を勝利へと導きました。
織田・徳川連合軍と武田軍の決戦で有名
豊川と宇連川の合流点に位置し、自然の要害を巧みに利用した山城。
現在は、土塁や内堀、外堀が残り、国の史跡に指定されています。
徳川家康の本陣跡は長篠城の西3kmの三河東郷駅の北側、織田信長の本陣跡は家康の本陣跡のさらに西北1.5kmにあります。
奥平家は奥三河の作手亀山城の城主。
奥平家はもともと今川方でしたが、桶狭間の合戦で今川義元が敗れると徳川方、さらには武田の圧力が加わると武田方につくなど当時の状況を反映して目まぐるしく主を変えたのです。
1572(元亀3)年、三方ヶ原の合戦で徳川家康軍を敗った武田信玄は1573(天正元)年、京を目指して三ヶ日から宇利峠(現在は国道301号が通り、東名高速道路がトンネルで抜ける愛知・静岡県境)を越えて三河に進軍。
豊川を渡り野田城(現・新城市野田)を攻め落としますが持病が悪化し、長篠城に退却、療養を決めます。
病状はよくならず、甲州に引き返しますがその途中で信玄は病死。
長篠城の籠城戦は戦国時代劇のハイライト
信玄の病死を知ると、奥平貞昌は、徳川家康の誘いを受けていち早く徳川方に寝返ったのです。
家康は信玄退却後に奪還した長篠城を奥平貞昌に任せますが、武田勝頼軍1万5000が長篠城を包囲。
こうして火蓋が切られたのが名高い「長篠の合戦」。
このとき、奥平貞昌は長篠城の籠城戦で勝頼を大いに苦しめ、織田・徳川連合軍の勝利へとつなげています。
1575(天正3)年5月、武田勝頼は1万5000の大軍を率いて長篠城へ進軍。貞昌は長篠城に籠城し、家臣の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)に織田方へ援軍を要請させて、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで武田軍の攻勢を凌ぎきったのです。
その功績から奥平貞昌は信長から「信」を賜って、以降信昌と名乗るように。
長篠城址では毎年5月5日に長篠の戦いの将士の慰霊をするための祭として『長篠合戦のぼりまつり』が開催されているます。
式典・法要の他、合戦行列・火縄銃演武・長篠陣太鼓演武・居合・弓の演武などが実施されています。
長篠城 | |
名称 | 長篠城/ながしのじょう |
所在地 | 愛知県新城市長篠 |
関連HP | 新城市公式ホームページ |
電車・バスで | JR飯田線長篠城駅から徒歩8分 |
ドライブで | 新東名高速道路新城ICから約3.5km |
駐車場 | 城址駐車場(50台/無料) |
問い合わせ | 長篠城址史跡保存館 TEL:0536-32-0162 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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