中世に三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町)に築かれた吉田城。江戸時代には吉田藩の政庁となった城で、現在では本丸、二の丸、三の丸一帯が豊橋公園として整備され、本丸北西の鉄櫓(くろがねやぐら)跡に模擬櫓が再建されています。池田輝政時代の石垣、内堀、外堀などが現存。続日本100名城(151番)に選定。
三河吉田藩7万石の政庁があった地
永正2年(1505年)、長山一色城主・牧野古白(まきのこはく)が駿河今川家9代・今川氏親(いまがわうじちか=今川義元の父、北条早雲の甥)の命により築城した城で、築城当時は今橋城(いまはしじょう)と呼ばれていました。
永禄8年(1565年)、松平元康(徳川家康)の三河統一で、腹心で徳川四天王のひとり、酒井忠次(さかいただつぐ)が東三河から今川勢力を一掃し、遠江・甲斐を睨んで城主となり、15年間ほど城主を務めています。
豊臣政権樹立後、天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封で池田照政(後の池田輝政)が入城。
本丸を中心に二の丸・三の丸を配置しましたが天守はなく(鉄櫓が代用天守)、吉田藩の政務などは本丸御殿で司られていました。
三の丸には御城米蔵、馬場等の施設が造られ、三の丸の外側を家臣団の屋敷が取り囲み、さらにその外側を総堀が大きく取り囲んでいました。
将軍上洛時の宿所にした本丸御殿も宝永4年10月4日(1707年10月28日)の宝永大地震で倒壊、以後再建されていません。
池田氏以降は譜代大名が藩主となったことからも尾張・三河の入口で東海道の要衝である吉田城の重要性がよくわかります。
また老中・大坂城代・京都所司代格などの大名だったことから、比較的に短期で転封されることから出世城ともいわれ、城下に藩主の廟所があるのは、小笠原家4代の廟のある臨済寺(豊橋市東田町)のみです。
明治4年、敷地は兵部省の管轄となり、明治6年の失火で大部分の建物を焼失。
さらに名古屋鎮台の豊橋分営所が設置され、明治8年には大日本帝国陸軍歩兵第十八聯隊が置かれています。
本丸御殿を取り囲んだ4つの櫓のうち鉄櫓(くろがねやぐら)は昭和29年の再建です(鉄櫓が実質的な天守の役割を担っていました)。
櫓の下(北面、西面)にある石垣は、池田照政時代のもので、当時としては最新の技術で積まれた石垣が現存しています(池田照政は家康の娘・ 督姫を娶り、関ヶ原合戦後に 52万石で姫路へ転封となり、輝政と改名し、 現在、世界遺産となっている姫路城を築いています)。
現在、城跡は豊橋公園の一部となっていて、公園内に豊橋市美術博物館があります。
豊橋公園の入口は、明治31年に移転した歩兵第十八聯隊の正門(営門)で、コンクリート製の門と哨舎が現存しています。
また本興寺(静岡県湖西市鷲津/江戸時代は10万石の格式と徳川将軍家の三つ葉葵の使用を許されていました)の奥書院、山門は、久世重之(くぜしげゆき)が寄進した吉田城の御殿と大手門だと伝えられています。
石垣は名古屋城「天下普請」の残石!?
本丸の石垣は、慶長15年(1610年)、西国諸大名の助役による天下普請(てんかぶしん)で築城された名古屋城の石を転用している部分があり、名古屋城築城時の大名家の家紋が刻まれています。
確認されているのは60種ですが、冠木門跡にある案内板に「土佐の二引両」、「一文字一星」、「重桝」、「一文字鱗」、「丸一文字」など主な石垣刻印の場所が示されています。
名古屋城築城用の残石を転用したため、こうした刻印が残されているのだと推測できます。
吉田城(豊橋公園) | |
名称 | 吉田城(豊橋公園)/よしだじょう(とよはしこうえん) |
所在地 | 愛知県豊橋市今橋町3 |
関連HP | 豊橋市公式ホームページ |
電車・バスで | 豊橋市電豊橋公園前電停から徒歩5分 |
ドライブで | 東名高速道路豊川ICから約9km |
駐車場 | 74台/無料 |
問い合わせ | 豊橋市観光振興課(吉田城)TEL:0532-51-2430/豊橋市公園緑地課(豊橋公園) TEL:0532-51-2650 |
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