確実に誤解を生む! まさかの天守閣(29)尼崎城|兵庫県

兵庫県尼崎市にあった近世城郭が、尼崎城。徳川家康の近習として仕えた戸田氏鉄(とだうじかね)が豊臣家滅亡(大坂の陣)後に尼崎藩を立藩し、築城した城です。複合式層塔型4重4階の天守がそびえ立っていましたが、現在も外観だけ復元した天守が尼崎城址公園内に建っています。

本丸に4重の天守がそびえ立っていた!

元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で尼崎藩を立藩、藩庁として築いたのが尼崎城です。
戸田氏鉄以降の藩主は、青山氏4代、桜井松平家7代といずれも譜代大名が続き、西への監視という役割があったと推測できます。

徳川家康は、大坂の陣の直後、元和元年(1615年)〜元和3年(1617年)、大坂(現・大阪)とその周辺から豊臣氏方の勢力を一掃していますが、その完成として畿内にいる外様勢力を他の地方へ転出させ、大坂城を取り囲む要衝に信頼できる人物を配置しているのです。

尼崎を領有する外様大名・建部政長(たけべまさなが)は、豊臣政権下では尼崎郡代。
大坂の陣では徳川方に与して尼崎藩1万石の大名となりましたが、配置換えで播磨国揖東郡林田へ移封されています。

尼崎城は西への備えということもあり、水堀が2重、3重に巡らされるという堅固な構造。
本丸(東西、南北とも115mの正方形)には4重の天守、3棟の三重櫓、そして本丸御殿が並んでいました。

外観を復元した現天守は西三之丸跡に建つ

本丸の天守は、明治初期まで現存しましたが、明治6年の廃城令以降、多くの建物が破却されています。
本丸跡は、現在、尼崎市立明城小学校の敷地と化していて、遺構はなにもありません。

実は尼崎城址公園として整備されるのは西三之丸の北半分で、往時の壮大な敷地からすれば、まさにごく一部です。
この尼崎城址公園に平成30年に完成したのが4層の模擬天守。

家電量販店・ミドリ電化の創業者・安保詮(あぼあきら)が10億円以上の私費を投入して建築、完成後に尼崎市に寄贈した建物で、外観と規模は幕末の天守を模しています。

ただし、往時の天守のあった場所に復元することができなかったので、北西に300mほど離れた尼崎城址公園(西三之丸跡)に建設されたのです。

つまり、外観は往時のままですが、建つ場所が異なることに留意して見学を、ということに。
遺構が少ない尼崎城にとっては、まさにシンボル的な存在となっていますが、場所の違いには注意が必要です。

確実に誤解を生む! まさかの天守閣(29)尼崎城|兵庫県
名称 尼崎城/あまがさきじょう
所在地 兵庫県尼崎市北城内27
電車・バスで 阪神尼崎駅から徒歩5分
ドライブで 阪神高速3号神戸線尼崎東ICから約3km
駐車場 18台/有料
問い合わせ 尼崎城址公園管理事務所 TEL:06-6480-5646/FAX:06-6480-5746
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
尼崎城

尼崎城

兵庫県尼崎市にあった江戸時代初期に築城された平城の跡が尼崎城(あまがさきじょう)。徳川家康の近習として仕えた戸田氏鉄(とだうじかね)が築城、江戸時代に尼崎藩の藩庁として機能し、譜代大名が守る城として西国に睨みを効かせていました。尼崎城址公園

確実に誤解を生む! まさかの天守閣(29)尼崎城|兵庫県

兵庫県尼崎市にあった近世城郭が、尼崎城。徳川家康の近習として仕えた戸田氏鉄(とだうじかね)が豊臣家滅亡(大坂の陣)後に尼崎藩を立藩し、築城した城です。複合式層塔型4重4階の天守がそびえ立っていましたが、現在も外観だけ復元した天守が尼崎城址公

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