徳島城(徳島中央公園)
国の史跡である徳島城の城跡。その城跡に日露戦争戦勝記念で明治39年に開園したのが徳島中央公園です。自然を生かした城山ゾーンを中心に、旧徳島公園ゾーン、スポーツゾーン、休養ゾーン、河岸ゾーンの5つのゾーンがあります。徳島城…
国の史跡である徳島城の城跡。その城跡に日露戦争戦勝記念で明治39年に開園したのが徳島中央公園です。自然を生かした城山ゾーンを中心に、旧徳島公園ゾーン、スポーツゾーン、休養ゾーン、河岸ゾーンの5つのゾーンがあります。徳島城…
高知城は、1601(慶長6)年から10年の歳月を費やし、土佐藩の初代藩主・山内一豊(やまうちかつとよ)が築城した平山城。現存する天守は、1727(享保12)年に城下の大火の延焼で焼失後、1753(宝暦3)年に再建されたも…
土佐出身の板垣退助は、自由民権運動の指導者のひとりで第2次伊藤内閣の内相。明治維新以前は土佐藩の藩士だったこともあって、板垣退助像が高知城の追手門をくぐってすぐの石段の上り口に立っています。
高知城の玄関(大手)にあたる追手門から入城した高知県立図書館前に立つのが、土佐藩の初代藩主山内一豊(やまうちかつとよ)の騎馬銅像、山内一豊像。平成8年9月20日、山内一豊の祥月命日(しょうつきめいにち)に再建除幕されたも…
高知城の本丸にそびえる天守は現存12天守(弘前城、国宝松本城、丸岡城、国宝犬山城、国宝彦根城、国宝姫路城、国宝松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城)のひとつ。望楼型天守の典型で、外観は4重、内部は5階建て…
高知市内中央に位置する高知城は、国の史跡、そして「日本100名城」にも選定されています。書院造の本丸御殿は懐徳館(かいとくかん)として、山内家ゆかりの品や土佐の偉人、歴史資料などを展示、公開。上段の間、二の間、三の間、四…
高知城の本丸と二の丸をつなぐ櫓門が詰門。北面は入母屋造り、廊下門(国の重要文化財)に接続する南面は、本瓦葺きとなり、門内に侵入した敵が簡単に通り抜けられないよう筋違いのからくり門としての役目も果たしています。高知城に現存…
高知城本丸の搦め手(裏側)の防備を固めた門が黒鉄門(くろがねもん)。入母屋造り、本瓦葺きの楼門で国の重要文化財。外観上は漆喰塗の壁が見あたらず、柱、門扉などに多数の小鉄板が打ちつけ、すべて板張りで黒く塗られているので黒鉄…
高知城の表門(大手)にあたる追手門(おうてもん)は、1801(享和元)年築、高知城にある15棟の国の重要文化財のひとつ。入母屋造本瓦葺で石垣を積み上げ、渡櫓をのせた櫓門で、侵入者に三方向から攻撃を加えることができる造り。…
1559(永禄2)年、遠藤盛数(えんどうもりかず)によって砦が築かれたのが郡上八幡城の始まり。1667(寛文7)年、6代城主・遠藤常友の時代に修復によって、幕府から城郭として認められ改修を行なっています。1755(宝暦5…
岐阜県大垣市墨俣町、長良川西岸に建つ墨俣城(すのまたじょう/戦国時代の地名は洲股)。1561(永禄4)年5月の織田信長による美濃侵攻の際に木下藤吉郎(豊臣秀吉)が短期間で築城したため「墨俣一夜城」の名があります。この一夜…
関ヶ原の合戦では西軍の石田三成の本拠地となった城が大垣城。1535(天文4)年、美濃守護・土岐一族の宮川安定により創建。1596年(慶長元)年に伊藤祐盛が、豊臣秀吉の命により4層4階建ての天守を築いています(天守完成は天…
1597(慶長2)年、石田三成の妹婿・福原直高により、12万石の居城として築かれた平城が府内城で府内城跡は大分城址公園として整備されています。現在は文化会館がある大分城址公園は、天守のそびえた本丸周辺の水堀を埋めて整備さ…
岡城は、竹田市街の東2kmにあり、1185(文治元)年、緒方惟栄(おがたこれよし)が源義経を迎えるために築城したと伝わる、平山城の跡。標高325m、周囲は2つの川にはさまれ、阿蘇山の火砕流で形成された断崖絶壁に建っている…
佐土原城・二の丸跡に建つのが佐土原城跡歴史資料館「鶴松館」で、館名の「鶴松」は佐土原城の別称。二の丸御殿を復元した館内は、寛永年間の城址をもとに推定復元されたもので、書院、数奇屋(土人形の館)、大広間の3棟からなり、書院…
1603(慶長8)年、高橋元種により、近代的な銃や大砲からの攻撃に耐えるよう五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた丘に建てられたのが盛岡城で、現在、延岡城跡が城山公園として整備されています。建物は明治4年の破城令により、ほとんどの建…
昭和53年、飫肥(おび)城の大手門の再現とともに設置されたのが飫肥城歴史資料館。飫肥城は、1587(天正15)年に豊臣秀吉に仕えた伊東祐兵(いとうすけたけ)が九州征伐の戦で戦功を認められて賜った城。明治4年の廃藩置県まで…
難攻不落の名城として全国にその名を轟かせた日南市の飫肥城(おびじょう)。すべての城郭建築は残念ながら明治6年に取り壊されてしまっていますが、石垣だけは当時のまま現存し、銃弾跡が残されています。その石垣に合わせて昭和53年…